あんたの隣にいたくて

「僕はこの家を出ようと思う」
「え……?」
 そんな言葉を突き付けられたのは本当に唐突なことだった。
 いつも通り、何の変哲もない夕食の席でのことだった。
「な、んて?」
 自分の手からフォークが落ちて、カンと音を立てる。
 そこまで自分が驚いたことに何より驚いたし、目の前に座る赤髪の少年の言っていることが理解できなかった。
 なんで?
 真っ先に思い浮かんだのはそんな言葉で。
 自分――木下亜華里と彼――アスカル・レントラ・トイールは孤児として、この家――師匠である水伸の元に匿われ、今まで暮らしてきた。
 師匠も家族のように思ってくれていいと言っていたし、彼だって同じ気持ちだったはずだ。
 今までも三人で仲良く暮らしてきたはずで、これからもその日々が続くと信じて疑わなかった。
 だから、彼が何を言っているのか理解できない。
 なんでそんなことを言うの。
 あまりに驚いていたからだろうか、彼はふいっと目を逸らす。
 そして、言いづらそうに繰り返した。
「この家を出ようと思ってるんだ」
「だからなんで!!」
 バンッと鋭い音が部屋に響く。
 じんわりと手が痛んで、それが自分が机を勢いよく叩いて立ち上がったことによってなった音だということに気付いた。
 そもそも、自分の口から出た声も大きかった。
 自分で自分の耳が痛くなった。
 手と耳と、そして、張り上げた声で喉も痛くて、彼の言ってることが良くわからなくて、目頭が熱くなる。
 泣きそう。
 なんで。
「な……、別に怒らなくてもいいだろ……」
 もごもごと彼が言う。
 怒ってない。
 怒ってないよ。
 怒ってるわけじゃなくて。
 分からない。
 何を言っているのか理解できない。
 驚いて、自分でも、こんなに声を上げたことに驚いている。
「怒ってない!!」
「じゃあ、なんでそんな怒鳴るんだよ!!」
「あんたが意味わからんこと言うからやろ!!」
 自分が立ち上がったせいだろうか、彼も立ち上がっていて。
 彼だって、声を張り上げている。
「僕は、ただ事実を言ってるだけだろ!?」
「事実!? 事実やって!?」
 机越しに彼の服の襟に掴み掛る。
 あんたは何を言い出すんや。
 なんで、そんなこと言うわけ!?
「この家から出ていくことが事実!? あんた、自分で何言うてるのか分かってんのか!?」
 この家から出ていく?
 うちと師匠を捨てて?
 師匠に助けてもらってここまで生きてこれた恩義があるのに?
 なのに、この家から出ていこうというのか?
 ひどい恩知らずだ。
 何を言っているのか分からない。
 理解、できない。
 理解、したくない。
 頭に血が上って、くらくらする。
 意味が、分からない。
「あなたたち、何やってるの!!」
 すごい勢いで扉が開けられた。
 師匠が自分と彼を引き離そうと割り込んでくる。
「師匠、邪魔せんといて。うちはこの恩知らずが信じられへん!! アスカル、あんた、正気でそんなこと言ってるんやったら、うちはあんたのこと許さへん!!」
「恩知らずだって!? お、俺様は!!」
「いいからやめなさい!!」
 強い力で師匠に手を引っ張られ、彼の襟を掴んでいた手が解かれる。
 アスカルも勢い余って、よろけていた。
「あなたたち、夕飯の最中に喧嘩とは一体どういう了見なの!? 座りなさい!」
 すごい剣幕で怒られる。
 師匠には力でも言葉でも敵わないことは自分も彼も理解していた。
 なので、二人そろって椅子に座る。
 師匠に言われて、今が夕飯の最中であったことを今更思い出す。
 机の上には冷めた食事が並んでいた。
 自分の対面には彼が先ほどと同じように座り、師匠はうちらを見下ろすように誕生日席に座った。
 沈黙。
 怒り心頭の師匠。
 黙りこくったアスカル。
 そして、怒られて少し冷静になった自分。
 三人とも何も言わない時間が訪れる。
 カチコチと時計の音だけが部屋に響いている。
 最初に沈黙を破ったのは、師匠のため息だった。
「まず、経緯を説明してもらいましょうか。手を出してたのは、亜華里ね。じゃあ、アスカルから言い分を聞きます」
 亜華里は手を出していたから、言い分は聞かない。
 喧嘩をするときは何が何でも先に手を出した方が悪い。それが師匠の教えだった。
 なので、自分は発言を許可されないのだと分かっていたので、黙るしかなかった。
 アスカルがちらりとこちらを伺う。
 なんで、うちを見る?
 とガン飛ばすと、やっぱり彼は目を逸らした。
 そして、師匠の方を見て、口を開く。
「師匠。まず、亜華里が悪いわけじゃないことだけは先に言わせて。この件は僕が悪い」
「はぁ!?」
 彼の言葉に食いつく。
 なぜ、自分が悪くないと言われなくてはならないのか。
 お前に温情をかけられる謂れなんてない!!
「なんで、あんたにそんなこと言われなあかんの!?」
「亜華里!」
 ピシャリと師匠に怒鳴られる。
 そうだった。自分に発言権はなかったのだった。
 何も言うことができず、黙る。
「それで?」
 師匠が彼に先を促した。
「僕がこの家を出ることを言った。だから亜華里が怒るのもしょうがない。亜華里は悪くない」
 彼は頑なに亜華里は悪くないと言う。
 どうしてそんなことを言われなければいけないのか。
 まるで、自分が幼稚な子供のように思われている気がして、どうしても嫌だった。
 うちが駄々を捏ねているって言いたいんか?
 なんで。
 だって、だって。
 そもそも、なぜ自分はこんなにぐちゃぐちゃした気持ちにさせられているのだろう……。
「そう。自分で言ったのね。こうなること、分かってたでしょう?」
 と、師匠は言った。
 え……?
 師匠はこのことを知っていたというのか……。
 じゃあ、アスカルの言葉にこんなに動揺したのは自分だけだって言うの……。
 これじゃあ、うちだけ何も知らなかっただけやんか……。
「な、んで」
 気付けば、口から嗚咽が漏れていた。
 あぁ。うちに発言権はないのに。
 でも、でも。
 ぼたぼたと机の上にシミが広がる。
「亜華里!?」
 アスカルが驚いたように立ち上がる。
 すごく悲しそうに眉を寄せている。
 やめて。
 そんな顔しないで。
「亜華里、なんで泣くの……」
 泣かないでとハンカチを差し出される。
 今、そういうことをしないでほしい。
 そういう優しいことをしないでほしい。
 本当に。
「うちだけ動揺して、馬鹿、みたい」
 ぼろぼろと涙と一緒に本音が零れていく。
 嫌だ。
 嫌だ。
 なんで、うちだけ、何も知らないで、こんな気持ちにさせられなきゃいけないの。
 悔しい。
 悔しいし、悲しい。
 悲しい……?
 うぁああああと、声を張り上げる。
 もうよく分からなかった。
 とにかく、悲しくて悔しい。
 うちだけこんなに子供みたいなことを言っていることが悔しい。
 うちだけおいていかれているみたいで。
 うちだけ一人で駄々を捏ねている。
 うちは怒ったわけじゃない。悔しかった。悲しかった。
 アスカルがこの家から出ていくことを決めたことが。
 それもうちには何の相談もなくだ。
 そして、とても悲しかった。
 ずっとずっとこれからも一緒に暮らしていくんだと信じて疑っていなかった。
 だから、理解したくなかった。
 これから、彼がいない日々がやってくるのだということを。
「亜華里。泣かないで。僕が悪いんだ。だから、泣かないで」
 おろおろと、机の向こう側で彼が慌てている。
 そんなことを言ったら、あんただって悪くないやろ。
 だから、そんなに悲しそうな顔をしないでほしい。
 うちが泣いてるのは、うちのせいなんだから。
「はぁ……。まったく」
 師匠がしょうがないなぁとため息をつく。
「亜華里。泣かなくていいから、落ち着きなさい」
 先ほどまであんなに怒っていたのに師匠は優しくそう言う。
 それで少しだけ涙が引っ込む。
「アスカルも大丈夫だから、座りなさい」
 師匠に促され、彼は座る。
 うちにハンカチを押し付けてから、だったけど。
 ひっくとしゃくりあげる。
 アスカルが貸してくれたハンカチをとりあえず、顔に押し付ける。
 泣きやまないと。
 師匠もアスカルも困らせてしまう。
 自分だけおいていかれるのは嫌だ。
「亜華里。あなたも驚いたんでしょうけど、あんなに怒らなくていいわ。アスカルが恩知らずだなんてことはないから安心なさい」
 と、子供をあやすように師匠は言う。
 恥ずかしい。
 師匠は全部知っていたのだ。自分の言った言葉が見当違いだったことは師匠が知っていると分かった時点で、分かった。
 師匠が全部知っていたということは、アスカルはちゃんと師匠と話し合った結果、この答えを出したのだから。
 彼は何も悪くないのだ。
「それと、アスカル。いつものことだと思うけど、あなたも言葉が足りなかったんでしょう? あなたは良くも悪くも言葉が足りないわ。ちゃんと説明してあげないと亜華里も驚くでしょう」
「すみません……」
 申し訳なさそうにアスカルが頭を下げる。
 うちが勝手に怒鳴り散らしただけなのに。
「とりあえず、ごはん、温めなおすから、食べなさい。落ち着いてから、ちゃんと話をしましょう」
 という師匠の言葉で、すっかり冷めきった夕食のことを思い出す。
 そういえば、自分はフォークを落としていたのだったと思い至り、床からフォークを拾い上げる。
 その手から、師匠がフォークを持っていった。
 それと食卓の食事を持って、師匠はキッチンへと向かった。
「……」
 またしても沈黙がやってくる。
 気まずく自分とアスカルが残される。
 すんすんと鼻をすすりながら、ハンカチの隙間からアスカルを見る。
 俯いた彼の表情はよくわからない。
 ただ、彼の眼下には、小さな水滴が零れていた。
「ア、スカル?」
 もしかして、泣いている……?
 まさかと思い、声を掛ける。
「何?」
 顔を上げないまま返事を返される。
 すんと自分ではない鼻をすする音が聞こえる。
 なんであんたが泣く必要がある。
「亜華里、ごめん。亜華里が怒るのはもっともなんだ。僕だって、分かってる。僕の言ってることがわがままだってことは」
 と、顔を俯けたまま彼は言う。
「でも、僕も何かしたいって思ったんだ。このままここにいたら、一生、三人で幸せに生きられるのかなって思うよ。思う……けど、それでいいのかなって思ったんだ」
 ぽたり、ぽたりと一つ、二つ机にシミが増えていく。
「僕にできることがあって、したいことがあって。師匠はきっと、僕がそんなことをしなくても、絶対に二人とも幸せに暮らせるようにするって言ってくれる。でも、このまま師匠に甘えて幸せに生きることが本当に正しいのか、僕には分からなくて。だったら、僕は僕にできることをやりたいって思ったんだ」
 そこまで言って彼は顔を上げる。
 涙でびしょびしょ。
 一緒やないか。
 けれど、その目はしっかりとうちを見ていて。
 その目には決心が宿っていることはよく分かった。
「僕、エルピスに行こうと思うんだ」

***
 
 あれから、ずいぶんと経った。
 アスカルはあの後、世界防衛機構エルピスに行った。
 あの夜、彼が泣いてた理由はよくわからないし、なぜ師匠の元を離れ、わざわざかつて命を狙われた神族と戦う道を選んだのかは今でも分からない。
 あのあと、師匠が戻ってきて三人で囲んだ食卓は涙の味がした。きっと、彼も同じだったと思う。
 師匠曰く、アスカルは、自分自身が守られてるだけではいけないと思ってエルピスに行きたいとのこと、そして、エルピスから師匠とうちを、世界を守れる一人になりたいと言っていたのだということを聞かされた。
 だから、恩知らずだなんてとんでもない。
 むしろ、彼は恩を返そうとしているのよと師匠は言っていた。
 それでも、そんな大事なことを自分には何の相談もなく、師匠と彼の間で話がついていたことはやっぱり悲しかったし、悔しかった。
 おいていかれているようで、あまりいい気持ちではなかった。
 けれど、彼が決めたことで、師匠が認めたことに返す言葉はなかった。
 そして、それから数日後、彼はエルピスへと旅立った。
 あれから、彼とはろくに連絡を取っていなかった。
 彼が忙しいこともあったが、そもそも何を話していいか分からなかった。
 彼においていかれ、師匠に守られる幸せから抜け出そうなどと微塵も思わなかった自分に彼に話せることなどなかった。
 それからしばらくして、自分は世界防衛機構エルピスのユーラシア支部に入隊した。
 彼は本部に行ったので、あえて自分は支部を選んだ。
 あの時、彼に一瞬でも恩知らずだなんて言ってしまった自分は、彼に合わせる顔がなかった。
 それでも、ただおいていかれるのは嫌で。
 少しでも、彼や師匠に近づくために自分もエルピスの一員ではいたかったので、あえて本部ではない支部で、彼と顔を合わせない形でその希望を叶えたのだった。
 彼が今、本部でどうしているか知らない。
 それでも、少しでも、あのときに見た決心の瞳に自分も近づけたら、何かわかるんじゃないかと思った。

 そして、予想外な形で彼と再会を果たすこととなる。

「意味が分からへん!!なんでうちが本部にいかなあかんの!?」
 支部長と師匠に呼び出されたうちが突き付けられたのは「エルピス本部への異動」だった。
 師匠が複雑そうな顔をしている。
 うちはこの支部で骨を埋める覚悟でここに入ったのだ。
 それを唐突に異動など言われても、はいそうですとは言えなかった。
「あいつが来いって言ってるんだ。行ってやんな」
 師匠が言う。
「あいつって誰やねん!!」
 と身を乗り出したところ、後ろから聞こえていいわけがない声が聞こえた。
「僕だよ」
 なんで。
 なんで、またそうなんだ。
 あんたと師匠はいつもうちに何の相談もなしにこういうことをする。
 勢いよく振り返る。
 そして、驚いた。
 あの時から成長した彼は、当時から綺麗な顔をしているとは思ったが、端正で美しい顔立ちをしていた。
 物語から抜け出してきた王子様かと見間違えるかと思うほどには。
「久しぶり。亜華里」
 彼は言う。
 それはどこか嬉しそうで。そして、やっぱりあの時のような決心の宿った顔をしていた。
 そんな顔を見せられては困る。
 また自分が駄々を捏ねる子供みたいじゃないか。
 うちだって、本当は……。
 けれど、それは口に出さない。
「馬鹿アスカル。姉弟子をからかっていいと思ってんのか?」
 とうちは意地悪く返すのだった。
 

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