Divine 明けの明星*宵の明星

=第一話「私と彼女が繋がるその日まで」= date06.04―序章 救世主の森の守り人―

 ザァ……と降るのは冷たい雨。
 この地にこんな大雨が降るのは実に珍しいことだ。
 はぁ、と小さなため息が聞こえる。
「結局降ってきっちゃったねー」
 窓の外を見つめる幼い少女の声音はとっても残念そう。
 外に遊びに行きたい年頃の少女にとって、雨は敵と言っても過言じゃないだろう。
 大事そうに抱えたぬいぐるみを握りしめながら「うぅ……」と悲しそうな声を上げる。
「ほーら、亜野。外ばかり見ていても仕方ないわ。甘いものでも食べて元気出しましょう」
 母親に呼ばれ、少女――亜野は声の方に顔を向ける。
 そこには、トレイを抱えた母親が立っていた。
「うん!」
 母親の腕に抱えられたケーキを見て目を輝かす。ケーキで機嫌は直ったようだ。たいそう元気に返事をすると、パタパタと母親の元へ駈けていく。
 我が子は笑顔が一番だと母親が安堵したのも、つかの間、亜野は勢いよく窓の方へ振り返った。
「……? 亜野、どうしたの?」
 ゴォォ……と風が森をうねらせる。
「……ねぇ、お母さん。なんか聞こえない?」
「え?」
 亜野の言葉に母親は耳をすますも、聞こえるのは風の音だけ。
 しかし、亜野は、窓の外を見つめたまま動こうとしない。
『……けて。助……けて』
「!?」
 はっきり聞こえてきた言葉は「助けて」の声。
 一体、誰が呼んでいるのだろう……。
 亜野はそわそわと窓と母親を見比べて悩んでいたようだが、次第に声は大きくなっていく。鮮明に、大きくなっていくその声に少女はいてもたってもいられなくなった。
「やっぱり、聞こえる!」
「あっ……! 待ちなさい、亜野!」
 母親が叫ぶもすでに遅く、亜野は靴も履かず、傘も差さず、外へ飛び出していた。
 開け放たれた扉からは強い風と雨が吹き付ける。
 あまりのことに呆気にとられた母親はすぐに追いかけることができず、ただ小さな少女の背は昏い暗いこの森――救世主の森の奥へと消えていった。
「……声って……。まさか……」
 亜野の母親は開いたままの扉の前で茫然と立ち尽くす。
 森は唸り声をあげ、激しい雨は冷たく地面を打ち付けていた。

***

 森には雨が降り注いでいる。
 地に落ちては跳ね、葉に落ちては跳ね、ここではまるで踊っているかのように、雨は軽やかなステップを踏む。
 ここは、森の深い聖域。
 他所では激しい嵐のように見えた雨も風もここでは穏やかだ。
 聖域にそびえ立つ、とてつもなく大きな木が激しい雨風をいくらか遮っているかららしい。
 ピタッと柔らかいものに雫が落ちる。
「う……ん……」
 落ちた先は一人の少女。彼女の瞼が微かに震える
 つい先程まで、ここで気を失っていたのであろう彼女は、肌に落ちる雨にうっすらと目を開けた。
「……どこ……ここ」
 擦れた声で呟く。
 彼女の目に入るのは、大きな木とパラパラ落ちる雨。
 見覚えのない風景だった。
 彼女はゆっくりと上体起こすとあたりを見回した。やはり、見覚えはない。
 鈍く痛む頭に手をやるとはらりと茶色の髪が胸に落ちる。
 それを見つめ、彼女は、あれ? と首を傾げた。
「私、誰……?」
 癖のない茶色の髪。頭を撫で回して初めて、自分はそれを二つに結っているのだと気付く。
 気付くが、腑に落ちない。
 私は、こんな髪型をしていただろうか。
 彼女の胸に漠然とした疑問が宿る。
 
 そもそも、私はどんな顔をしていたのだろう?
 
 そこまで考えて、頭に激痛が走る。
「……わ、たし……」
 ガクッと頭を落とす。
 痛みに頭は考えることをやめ、全身から力が抜けたかのように頭を押さえていた手はごとりと地面に落ちた。
 指を動かすことさえ億劫に感じる倦怠感。それが彼女の体をじわじわと侵していく。
 ぼやける視界ににじむ汗。
 思い出そうとすればするほど、ただぽっかりと空いた”記憶穴”だけがはっきりと輪郭を帯びるだけで、何ひとつ、自分自身を形作ってきた”記憶もの”はつかめない。
 彼女が強い倦怠感に浸食され、再び気を失いそうになった
 その瞬間、

「見つけた!!!!」
 
 耳を劈く程の大声量が聖域に響き渡ったのだった。
 彼女は倦怠感を吹き飛ばすその大声にびくりと肩を上げた。
 恐る恐る振り返った彼女の目飛び込んできたのは
 ……傘も差さず、裸足のまま、息を切らし泥んこになった幼い少女の姿であった。
「……だれ……?」
 彼女の問いに幼い少女は泥と雨でべちょべちょになった頬を無造作に手で拭うと屈託のない笑みを浮かべ、可愛らしくスカートの裾をつかみ一礼した。泥まみれで上品とは言い難い姿ではあったけれど。
「わたしは亜野。亜野・論・ユイ・スペット・ボル・フェイユ・メイ・ロイ。私を呼んだのはおねえちゃん?」
 身に覚えの無いこと、そして、目の前に現れた泥まみれの少女に彼女は言葉を失った。
「あれ? 違う? でも、この森に他の人がいるなんて滅多にないのに……。見る限り、おねえちゃんしかいなそうだし、声が聞こえたのもこのあたりで間違えないんだけどなぁ……」
 うーん……。と亜野と名乗った少女は困った顔をする。
 正直、困った顔をしたいのはそれを聞く彼女の方だった。
 ただでさえ、何もかも分からない状態なのに、目の前に現れた幼い少女は意味の分からないことをペラペラしゃべりだすし、身に覚えのないことを問われる始末。
 何が何だか彼女には理解できなかった。
「……おねえちゃん?」
 顔に出たのだろう。亜野に不審そうに顔を覗かれる。
 そうして、亜野は何か察したのか「はっ!」と口元に手をやった。
「挨拶まだだった! こんにちは!」
 満面の笑みで彼女に手を差し出す。何を察したのかと思えば全くの的はずれだったが、そのおかげで彼女は何とか返す言葉を見つけたよう。
「えっと……、こん、にちは?」
「うん! こんにちは!」
 彼女の挨拶の語尾が不安そうに上がるのも気にせず亜野はうれしそうに彼女の手をとった。相変わらず、その手は泥まみれだったけれど、亜野の人懐っこい笑顔に彼女もつられて微笑む。
「おねえちゃん、人間の人?」
 亜野の瞳に好奇心が顔を出す。
「えっと……。た、たぶん……」
 自信無さ気な彼女の答えに亜野は再び、疑問を口にする。
「人間……じゃないの?」
「いや、そうじゃなくて……えっと、その」
 彼女が目を伏せながら答える言葉はひどく曖昧。
 そうじゃないのなら何なのだろう。彼女の声はどんどん小さくなっていく。
 彼女はやはり何も思い出すことはできなかった。諦めて、目の前の小さな女の子に事情を説明する。
 自分は何も覚えていないこと、気づいたらここにいたということを。
 そして、あなたに出会ったのだと。
 彼女にはそれ以上に語る言葉がなかった。
「……記憶喪失、か。もしかして……」
 亜野が何か思い当たることがあるような……と考えこんでいると、二人の背後から「はぁ、はぁ」と大急ぎでここに来たのだろう女性が現れた。
 その手には差した傘とは別にもう一本小さな傘を持っている。
「あ……」
 彼女が声を漏らすよりも早く、亜野は女性の気配に振り返った。
 そこに立つ女性の姿にぱぁああと亜野の顔に笑顔が咲く。その様子に彼女はあぁ、もしかしてこの女の人と目の前の少女は……と悟る。
「おかあさん!」
 案の定、泥まみれの少女は女性が母親だと気づくと女性の元へ駆け出し、抱きついた。
「亜野!! あなたって子は!!」
 泥まみれの娘を抱きしめながら女性は安堵の息を漏らす。よほど、心配していたのだろう。傍から見る彼女からもその安堵はよく分かるほどであった。
「って、あら……?」
 見知らぬ客人の彼女を亜野の母親は見る。
 すると、亜野があのねあのね聞いてと母親の服を引っ張る。
「あのね、おねえちゃんだったの! 声が聞こえてね! だから、わたし、急いでここに来たの! そしたらね、このおねえちゃんがいてね!!」
 幼い少女は興奮気味に母に伝える。
 母親にどれほど真意が伝わったのかは定かではないが、ある程度見当が付いていたのか、そうね、と娘の言葉を受け止めると女性は衣服を正し、彼女の前に歩み寄る。
「ようこそ、我が一族が守護するこの森へ。私はアンジェラ・ユイ・スペット・ボル・フェイユ・メイ・ロイ。”救世主の森”の守護を英雄様より仰せつかったメイ・ロイ家の者です」
 母親の様子がいつもと違うことに気づくと、亜野も慣れた動きで母に従う。
 まるで、この時を待って何度も練習していたかのように。
「貴女様をお待ちしておりました」
 母親――アンジェラと名乗るその人は彼女の前で深々と頭を下げた。
 突然の態度の変化に彼女は戸惑う。
「あ、あの……そ、そんなに畏まらないでください……。私には何がなんだか……」
 慌ててアンジェラに頭をあげるように言う。
 そんなに畏まられる理由が自分にはないと。
 彼女の様子を見て、亜野が助け舟を出す。
「あのね、お母さん。おねえちゃん、記憶がないんだって」
「あら、そうでしたのね。これは、失礼いたしました。えっと……」
 おそらく、名前は?という問いなのだろう。亜野が付け足してくれる。
「そうだ! 名前! 聞いてなかったよね! おねえちゃん、名前は?」
 問いに彼女はすこし躊躇う。
 ……私の、名前……。
 何一つ覚えていなかった自分。それなら、名前だって覚えていないのではないか。
 ぽっかりと空いた”記憶穴”
 黒くて深いそれを探る。せめて、名前くらいは残っているかもしれない。
「おねえちゃん?」
 嫌な汗がポタリと落ちる。
 黒くて深い穴を探るのは苦しい。耐え切れなくなって胸を押さえようとしたその刹那、
 
 カチャ
 
 冷たい何かが指先に触れ小さな音を立てた。
 彼女はそれに視線を落とした。
 そこには、小さな金属製の鍵。
 革紐に結ばれ、首にかけられたそれはどこか懐かしい暖かさを帯びていた。
「あ、私……」
 気づけば口から声が漏れていた。
 彼女はきゅっと小さな鍵を握り締める。この鍵は自分を教えてくれる。そんな気がした。
 躊躇いがちに頭によぎったそれを口にする。
「私は、――井ノ上由紀」
 ゆっくりと彼女自身も確かめるようにつぶやかれたその言葉。
 それは、彼女が初めて口にした”彼女の名すべて”。そして、この世界で救世主と呼ばれることとなる少女の名であった――――。
「そっか。由紀おねえちゃんだね。ようこそ。私達の森、救世主の森へ」
「貴女を歓迎いたします」
 亜野とアンジェラに手を差し出される。
 二人の手をゆっくりと握り返すと二人は彼女を立たせてくれる。
 彼女が始めて空を見上げたその時には、もう雨はやんでいた。
 雲の隙間から太陽が顔を出す。
 その光に照らされ、雨が置いていった水滴がきらきらと輝いた。
 一歩踏み出す。この地へ立った初めての一歩。
 
 これが始まり。

 まだ、何ひとつ知らない白くて美しいあなたとこの世界との出会い。
 
  

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