小さな世界

 小さな小さな世界がありました。
 小さな薄暗い部屋、たくさんの本。大きな窓。そして、そこから見える景色……。それがこの世界の全てでした。
 世界の住民はただ一人。
 住民は世界を愛していました。
 何も変わらない毎日を住民は愛していたのです。
 愛すべき日々はこれからもずっとずっと続くものだと思っていました。
 
 しかし、時は突然やってきました。
 
 住民はふと気づいてしまったのでした。
 私は何なのだろう。ここはどこなのだろう。と。
 ほんの些細な出来事。
 それは窓に見えた何かの姿でした。
 今まで、住民は気づいていなかったのです。
 窓の向こうから誰かがずっとこちらを見ているということにその時初めて気づいたのでした。
 この小さな世界に介入してきた何者かの姿でした。
 住民は恐る恐る窓に近づきます。
 動きを読んでいたかのように何者かもこちらへ向かってきました。
 住民は首をかしげました。
 よく見ると、窓に見える何者かは全く自分と同じ動きをするではありませんか。
 再び首をかしげます。すると、
『ねぇ、あなたは誰?』
 そんな声が聞こえた気がしました。黙っていると、声はくすくすと笑い、続けます。
『あなたは何者なのかしら?何故、ここにいるのかしら? どうして、何で? なぜかしら?』
「それは……」
 そこまで言って、住民は先を続けることができなくなりました。
 なぜなのでしょう?声の質問に答える術を住民は持っていませんでした。
 代わりに問います。
「そういうあなたは?」
『さぁ? あなたなんじゃない?』
 声と共に窓の向こうの彼女は肩をすくめます。
『本当になぁんにも知らないのね、あなた』
「知ってるわ」
 窓の向こうの何者かを住民は睨みます。この部屋にあふれるほどたくさんある本で、住民は確かに知識を蓄えていたのですから、そんなことを言われたくはありませんでした。
 何者かは住民の様子に再び肩をすくめます。
『そう。ま、あなたがそう言うのなら、そうなんじゃない? じゃあ、あなた自身が何なのか分かるはずよね?』
「……う……。」
 嫌らしい笑みを浮かべながら声は住民に迫ります。しかし、やはり住民は答える言葉を持ってはいませんでした。だから、小さな声で返します。
「……人、間……。人間よ……」
『そうね。確かに人間だわ。それは間違いないでしょうね。でも、それってあなたのように二本足で立って、服を着て、思考を働かせて、そうして生きてる生き物全体の名称が人間ってだけでしょう? あなたの意思や心、癖やしゃべり方。その全てを総称する言葉ではないわ』
「じゃあ、そう言うあなたは何だっていうのよ……」
『だから、あなたなんじゃない?って言ったじゃない。……それに、自分で自分がわからない人にどうして私が分かるというのかしら。』
「そうやって……。本当はあなただって自分のこと、何一つ分かってはいないんじゃないの?」
 何者かに住民は食ってかかります。自分だけ言いくるめられるのはどうも癪に障りました。
 しかし、意外にも窓の向こうの何者かはあっさりとそれを認めました。
『そうかもしれないわね。
 ……でも、あなたより一つだけ知ってることがあるわ。
 外の世界に行かないと自分も他人も分かりはしないのだということ。他人を知らなければ、自分の良いところにも悪いところにも気づくことはない。本や物語だけじゃほんとのところは何も分からないんじゃないかしら? あなたはそれでもいいの?』
 少し悲しそうな声音で住民に尋ねます。
『あなたはずっとここにいたまま知りたいとは思わないで死んでゆくだけなの?
 いつだって、この窓は開いているのに――――』
 何者かは窓に触れました。
 住民も窓に手をかけます。すると、窓はガチャリと音を立てて簡単に開くことができました。
『あなたは外に出て、もっと世界を見るべきだわ。世界はきっとあなたが思っている以上に綺麗で、思っている以上に醜いでしょうけど、あなたは知りたいと思うのでしょう?』
 窓を開け放つと住民は小さな世界の住民ではなくなりました。
 小さな世界は本当に本当に小さな世界だったのです。
 本当の世界は彼女の想像よりも遥かに大きかったのでした。
 小さな世界の住民だった少女は、本当の世界の光の眩しさに目を細めました。今まで見ていた部屋の薄暗い明かりは何と暗かったことか。世界は明るさで満ちていました。
 森の木々たちは雨が降ったのか水滴を太陽の光でキラキラと幻想的に輝いてみせます。
 どれだけ遠くを見つめても果てのない、大きな大きな世界に少女は息をのみました。
「……なんて広いの……。これが……、世界?」
 少女の声に応える者はありません。
 窓の向こうにいたはずの何者かの姿はどこにもありませんでした。
 窓の外へ少女は足を下ろします。
 しかし、あの何者かの姿を見つけることはできません。少女は、前に足を進めます。
 冷たい風が少女の頬をなでたかと思うと、後ろからバタンっと大きな音がしました。
 とっさに振り向くと、今まで少女自身がいた世界の窓が閉ざされていました。
 そして、その奥に、少女を先ほどまで窓の外から眺めてた者がいました。
 一瞬のことで少女は理解できませんでした。
「……なんで?」
 少女の問いに案の定、何者かは笑います。
『なぜかしらね? その先に行けば分かるのかもしれないわ』
 窓を開けようと試みますが、もう、窓はピクリとも動きません。
 それを見て、部屋の中の何者かは首を振ります。行けと目で訴えていました。
 少女は小さな部屋に背を向けます。
 目の前には知らない世界が広がっていました。
 もう、振り向くことは出来ませんでした。
 開かれた大きな世界。
 まっすぐ、少女は見据えました。
 本の知識だけでは計り知れない世界がその先にあるのでしょう。
 それは怖いことかもしれないし、楽しいことかもしれない。
 どちらにせよ、少女の胸は高鳴っていたのでした。
「……私は知りたい。」
 確信を持って少女は言います。
「私は世界を知りたい。そして、何より自分が何者なのか……知りたい!」
『だったら、行けばいいわ』
 あの声が背を押してくれているような気がしました。
 少女は地を蹴りました。
 戻ることはできない、かつて愛していた小さな世界にさよならを告げて……。
 
『あなたがその先に行けば、否が応でも再び会うことになるでしょう。
 その時になって、あなたが自分に絶望したり、後悔したりして無ければいいのだけどね……』
 声がしたかと思えば、小さな世界には誰もいませんでした。
 ただ、小さな明かりだけが仄暗く揺れていました――――。

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