「――――――」
寝苦しいほど、暑い、暑い夏の日。聞きなれない国の言葉で奏でられる歌を薄れる意識の中で聞いた気がする。
それを誰が歌っていたのか、そもそも現実だったのか、それとも夢だったのか。
今となっては知ることができない。
ただ、その歌はとても優しくて、泣きそうな声だったことだけを覚えている。
***
「……い。おーい」
少年のような声が聞こえる。
ゆさゆさと肩を揺らされて、その声が自分に向けられているのだと気づき、意識が浮上する。
どうやら、誰かに肩を揺らされ、起きろと催促されている。
ん……とその声に返事をしようと声を出すが、小さな吐息が漏れただけだった。
仕方ないので、瞼を開ける。
「あ。起きた?」
と、瞼を開いた先には、青い髪の少年……じゃないな。青年だ。
カーラが僕の顔を覗き込んでいた。
えーと。
「おはよう。もう、朝だけど、大丈夫?」
意識がはっきりせず、ぼんやりとその顔を見つめていたら、その顔は若干不安そうに眉を潜める。
「おーい」
起きることを急かすわけでもないような間延びした声でゆさゆさと肩を揺すられる。
起きている。
起きてはいるが、その声に返事をしようにも声は出ないし、体も動かない。
目の前の人間もそれが分かっていて、自分の肩を揺すっているのだろうか、顔を上げて、手だけで肩を揺すっている。
目は開いているし、声も聞こえているが、どうにも起き上がれないのが、僕の朝だった。
「アスカル」
声が降ってくる。
自分の名が呼ばれたのだと、分かり、そこでようやく、声の方へ顔が上がった。
「起きた?」
その質問に2、3回、目を瞬かせて、目をこするために腕が上がる。
「おはよう……」
寝起きで掠れた声が絞り出せた。
「起きたね。大丈夫? 昨日はちゃんと寝たの?」
「ん……」
カーラの質問にそれだけ返す。寝たとも寝てないとも言わない。
単に、体が重く、まだ声が出なかったからだ。
「まぁ、顔見たら分かるけど」
答えるまでもなかったようだ。
「あ……?」
なんで? と聞く必要もないだろうが、そんな声が自分の口から漏れる。
「隈。あと、今起きれてないのが何より証拠でしょ」
はい、と鏡を押し付けられる。
鏡が顔面にぴたと当たり、その冷たさにようやく意識が覚醒した。
「冷たい……」
「目、覚めたでしょ。起きて。ごはん出来てる。顔洗って、隈は……どうにもならないね。まぁ、それなりに整えて出てきてよ。せっかくの整った顔がもったいないことになってる」
それだけ言って、カーラはリビングへと戻っていった。
僕は頭の重い体を何とか起こして、あくびを噛みしめる。
目に涙が浮かんで、目をこする。
眠い、というより、体が重い。だるい。
頭をかいて、ぼんやりと窓の外を眺める。
朝だ。
眩し過ぎる太陽に目を細める。
あぁ、今日も暑いなぁ……。と思った。
カーラに押し付けられた鏡をのぞく。
ウォーターグリーンの瞳が自分の伺う。
不意に、目線は右まぶたを見つめてしまう。
傷。
チクリと胸が痛む気がした。
僕はそれに頭を振る。
どうやら、全然頭が起きてないらしい。
あー。ダメだ。全然、頭が動かない。
眠い。
ちがう。生きる気力がわかない。
つかれる……。
「アスカル」
布団に顔を埋めそうになったところでリビングに行ったはずの声が僕を呼ぶ。
「本当に大丈夫?」
「あぁ……」
カーラの言葉に返事だけはしているけど、正直、何を聞かれているのかよくわからない。
そして、自分が何を答えてるのかもよくわからない。
ダメだ、動けないやつだ、これ。
ぺたりと半身を折りたたむように前に倒れ込む。
あー。とカーラの諦めたような声が聞こえた気がしたがそれに答える気力もなかった。
「うん。ダメだね。ちょっと待ってて」
扉の向こう側から何か言う声が聞こえる。
えーと。
今いつだっけ。ぼく、おれさ、ま? どこにいるんだっけ?
あれ……?
だれか、忘れてるような。
何か足りないような。
そんな気がする。
なん、だっけ……。
***
「アスカルー」
苦い匂いが鼻をつく。
そして、また体を揺さぶられている。
「起き上がれなくてもいいから、とりあえず、上体起こしてくれない? さすがに、俺、アスカルの体抱えられるほど筋力ないから」
文句というか、お願いをされているのだと気づいて、とりあえず、上体だけは起こす。
目は開いている。
起きてはいるが、なんだか、現実感が湧かない。
モニター越しに世界を見ているような気分だ。
「とりあえず、コーヒーだけでも飲む? そのままだとどうにもならないでしょ」
と、青い髪が揺れる。
コーヒー持ってと、僕の手にマグカップを握らせてきた。じんわりと手のひらから熱を感じる。
「大丈夫? とか聞いても、大丈夫じゃないの分かるから、とりあえず、飲んでくれる? 意識云々より、体を覚醒させた方が早い気がする」
何を言っているかやっぱり良くわからなかったが、コーヒーの匂いに少なからずおなかが空く感覚がして、渡されたマグカップを口につけた。
こくりと、コーヒーが喉を通っていく。
苦い。
苦、い。
うん。苦い。
「苦い」
思わず、声に出して、ようやくそこで意識がはっきりとしてきた。
世界もはっきりとして、ようやく、自分が今、世界防衛機構エルピスにいるのだということに気付く。
それと同時に、僕はなんでこんなにのんびりしてるんだと、マグカップを握りしめながら、ベットから飛び起きた。
「起きた?」
ベットの横で椅子に座りながら頬杖をついたカーラがそう言った。
起きてくれてよかったと、ちょっと安心したような顔をしている。
「おは、よう?」
「いや、なんで疑問形? おはようだけど」
ぼんやりとした意識の中で一生懸命カーラが起こそうとしていたことは何となくわかったので、おはよう? と言えば、おかしそうにカーラは笑った。
「とりあえず、顔洗って、ごはん食べてくれる? 冷めるよ?」
「あぁ。悪い……」
***
世界防衛機構エルピス、ここに来てから、かれこれ、数年が経過している。
起きられない朝はこうやって、めんどくさいだろうにカーラが起こしてくれている。
そんな朝が多いわけでもないのだが。
今日は一段と目覚めが悪かった。
カーラが作った朝ごはんを口に詰め込む。
「アスカル、大丈夫? 一体、何徹したらそんなひどい隈になるわけ?」
はぁ……と目の前の席について、僕を見ているカーラがため息をつく。
そんなにひどい顔をしているだろうか。
「何徹……? 何日、寝てなかったんだ、僕?」
「そういうことを聞いてるわけじゃないんだけど」
ぼんやりとした記憶で起きてた日数を数えようとしたところ、怒気が含まれた声にかき消される。
「無理に寝ろとは言わないけどさ」
と頬杖をついてそっぽを向いたカーラは諦めたように言う。
カーラもサラも僕に無理に寝ろとは言わない。
それが二人の優しさであることは知っている。
無理に寝かしつけられないし、起こされることもない。
流石に任務があるので、起こされはするが、むちゃくちゃな起こし方をされたりはしない。
二人は優しいのだ。
不意に、寂しいというより、物足りないという感情が顔を出す。
そう、何か足りない。
足りないんだ。
「……? アスカル? 寝てる?」
「いや、起きてる」
僕の動きが止まっていたからか、神妙な面をして、カーラがこちらを見ている。
「ホームシックになってるだけだよ」
と答えておく。
たぶん、何かが足りないと思うのは、ここに来る前の環境を恋しく思っているからに他ならないのだと思う。
「ホームシック。そういえば、ここに来る前は、師匠と姉弟子と一緒に暮らしてたん、だっけ?」
「まぁ、そういえばそうなるかな……」
「その頃もこんな生活してたの?」
「いや……」
カーラに問われて、あの頃の生活を振り返る。
それはそれはやかましい年下の姉弟子――亜華里がいた。
夜になっては、寝ろと怒鳴りつけ、僕が寝るまで部屋から出て行かず、朝は起きるまで殴る蹴るをやめないとんでもなく、うるさく、明るい姉弟子が。
「あそこでは、本当に亜華里が……年下の姉弟子だけど、が寝ないといつまでも僕の部屋にいて、朝は起きないと殴られるわ、蹴られるわ、散々だったよ」
「え――?」
うわ、そんなことする? みたいな顔でカーラが僕を見ている。
本当にそうだよな。と僕も目で返す。
「亜華里ちゃん、お前といくつ離れてるの?」
「えっと僕の年齢が定かじゃないから正確なところは分からないけど、2歳くらいとは言われてたね……」
「そんな女の子にやられ放題だったの……」
「年下って言っても、姉みたいな感じだからね……。小さくて可愛いから、妹みたいに思う部分もあるけど、上下関係ははっきりするって聞かないから、姉弟子として見ていたよ。だから、まぁ、やられ放題って意味ではお姉ちゃんかな」
あの頃の日々を思い出して、苦笑する。
亜華里は上下関係ははっきりすると聞かず、必ず、自分が姉弟子だ。お前は弟弟子なんだから、うちの言うことを聞け。うちが上だ。と言って、いつだって、僕を引っ張っていくのは亜華里の方だった。
幼い頃は、そんな亜華里を嫌いだと思っていたこともあったけど、今となっては勝てる気もしない。ただ、危なっかしいところはあるし、不意に見せる悲しそうな表情が姉と呼ぶには脆すぎて、僕が守らないとと思う部分もある。
僕の体が大きくなるにつれて、成長が止まった彼女の身長はあまりにも小さくて、彼女を守らないとと思う気持ちの方が大きくなってきたので、今となっては、姉と呼ぶのも違う気はする。
だから、姉か妹かと言われると正直、どちらともいえない。
が、あの姉弟子に逆らえる気はしない。
「……元気だといいけれど」
不意に言葉が零れる。
あ、と思った。
言葉が零れたら不意に寂しさが増してきてしまった。
「アスカル、今日はもう休んでたら? 顔、酷いよ。起こしはしたけど、今日は隊長が呼ばれてるだけで
多分、俺たち呼ばれることないと思うから」
寂しいのか、とは聞かないでくれたことに感謝する。
「ただ、寝るにしても、ごはんだけは食べてくれる? さすがに何徹もしてる人間にごはんも食べさせないなんて、本当に身体に悪すぎるから」
せめて、寝るならごはんは食べてからにしてくれと念を押される。
「分かったよ」
と僕は、やや冷めてしまったごはんを口に頬張った。
***
「――――――」
その歌がどこの国の何の歌だったか、僕はあまりはっきりと覚えていない。
ただ、暑くて、体調が悪い夜には誰かが枕元で歌っていたという微かな記憶だけがあった。
「それ」
ごはんを食べ終わって、布団に戻った僕を気遣ってか、カーラが椅子に座りながら窓の外を眺めて小さな声で何かを口ずさんでいた。
僕がそれを指摘すると、歌声は止む。
「え?」
「なんだか、聞いたことがあるんだよ。でも、ちょっと音が、違う気がして」
カーラの口ずさんでいる歌と、記憶の中で微かに聞こえた歌が重なる。メロディは同じだと思うが、おそらく、歌詞が違うのだろう。同じ歌なのに、違う音であることがどうしても気になった。
そして、そもそも、なぜカーラがその歌を知っているのか。
「きらきら星」
「へ?」
「昔の民謡でしょ。俺はよくわからないけど、母さんが昔、寝るときに歌ってた。Twinkle twinkle,little starって。きらめく星よ、あなたはだあれ、なんて」
カーラが歌詞を諳んじる。その音はやっぱり記憶とは違っていた。
僕がうーんと唸っていたからだろうか、カーラは続ける。
「昔々の民謡だから、いろんな国に伝わってるんじゃない? アスカルが聞いたのはそれかもね」
と、言って、カーラはまた、歌を口ずさむ方に戻っていった。
さながら、子守唄だなぁ……とベットで瞼を閉じながら思う。
『きらきらひかる おそらのほしよ まばたきしては みんなをみてる』
カーラの歌声とは違う声が記憶の彼方から聞こえてくる。
『きらきらひかる おそらのほしよ みんなのうたが とどくと いいな』
薄れゆく意識の中でその声は泣きそうだったなと思う。
『届いたら、いい、のに』
声はそう言った。
『この声が、届いたらいいのに。お母さんや真時に届いたらいいのに。死んだ人は星になるって誰かが言ってた。だったら、届いたらいいのに。星になって、いつまでも、見ててくれたら……いい、のに』
最後の方は、嗚咽交じりで。
ぽたりと記憶の中の自分の頬に涙が落ちる。
あぁ、そうか。
ぼんやりとした意識の向こう側で小さな女の子が僕を見下ろして泣いていた。
これは、夢だけど、夢じゃないと分かった。
これはかつて、実際にあったことだった。
眠れない僕に、彼女は子守唄のつもりで歌い始めたのだろう。
それが何故か泣き始めてしまった。
だけれど、僕は、その歌で眠くなってしまって、意識がぼんやりとしていたので忘れていた。
優しく、けれど悲しそうに歌っていたのは、亜華里だった。
そして、その歌の歌詞は多分僕の聞きなれない彼女の母国の言葉だったのだ。
その国の言葉を理解できるようになった今は、その歌詞の意味が分かる。
きらきらひかる お空の星よ 瞬きしてはみんなを見てる
きらきらひかる お空の星よ みんなの歌が届くといいな
彼女の国では、死んだ人は星になるのだと言う。
そんな意味でつけられた歌詞ではないだろうが、そのことと歌詞がどうしても結びついてしまったのだろう。
だから、彼女はあんな優しそうに、悲しそうに歌っていたのだと分かった。
そんな日の夢を見て、僕は深い眠りに落ちていく。
あぁ、あの姉弟子が恋しい。
自分の悲しさとかつらさを差し置いて、僕に優しくしてくれたそんな彼女に。
会いたい……。
今度は、その悲しい思い出と涙を受け止めて。泣かないで、大丈夫だよと声をかけたい。と、眠りに落ちていく意識の中でそう思った。
たぶん、次に目を覚ます時はちゃんと起きれるだろうと思いながら。
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