「理性って必要だと思う?」
「はぁ?」
よくわからない問いにあたしは顔を顰めた。
「お前、何言出だしてるんだ?」
いつもよくわからない奴だとは思ってはいるが、いつも以上によく分からないことを言い出したので頭を抱える。
「えー。何となくだよ。なんとなく、不意に、そんなことを思っただけだよ」
はははと柄にもなく声を出して笑うこいつになおのこと頭痛がする。
こいつ、いつも顔だけはそれはそれは笑顔なのだが、あからさまに声を出して笑うことは思いの他少ないから、それなりに精神的に参ってるのかもしれない。
何に参ってるのか知らないが。
というか、どうしてそんなこと言うまで放っておいた、と聞きたくなるが。
「理性、ねぇ……」
まるで、理性なんかなかったらよかったのにって口ぶりだなぁなんて、目の前の男、カーラに出されたコーヒーを飲みながらぼんやり思う。
そもそも、理性ってなんだよ。
というか、本当にこいつは何を言ってるんだ?
理性。理性、ね。
理性の塊みたいな性格してるくせに何言ってんだと思う。
いや、逆か。理性の塊みたいな性格だからそういうことを言い出すのか?
「サラ……?」
名を呼ばれ、少し離れたところで椅子に座りながら洗濯物を畳むカーラを見れば、慌てたように目をあちこち泳がせてる。
なんでだよ。
「なんだよ。お前が言い出したんだろ」
「い、いやぁ……、単に口が滑っただけというか。そんなに真剣に考えこまれると思わなくて。ただの戯言だよ。気にしないで」
気にしないでと笑いながら、笑顔が引き攣っている。戯言、ね。戯言って顔をしてから言ってほしい。
「理性ね。逆に聞くが、お前は理性、いらないって思ってるのか?」
「え、えぇ!? 逆に聞く!?」
「お前から言い出したんだろうが」
畳んでいたあたしの服を落とした。そんなに動揺しなくてもいいだろ。何を動揺してるんだよ。
「いや……、理性は、ほしぃ……」
やや顔を赤らめながら、最後の方は消え失せそうな声で俯きながらカーラは言う。
なんでだよ。
「あぁ? なんか煮え切らないな」
「少なくても、サラに言うことじゃなかった。本当に口が滑っただけだから気にしないで。忘れて」
「ふーん?」
本当に何かに参ってるらしい。
こいつは本当に理性の塊みたいなやつだから、そうそうこんな弱音をあたしに吐く奴ではないし、何かにつけ、理論的にことを処理するから、こんなわけのわからないことを言う奴ではない。
こいつのことをわけがわからないとは思っているが、それくらいのことは分かっているし、知っているつもりだ。
机にコーヒーを置き、席から立って、カーラのそばに寄る。
「な、に……?」
「笑えてないぞ。顔」
「は……?」
カーラは腕で顔を隠して顔を逸らす。
いや、今逸らしたところで遅いぞ。とは言わないでおいた。
「どっか調子でも悪いのか」
普段から、自分より背丈は低いが、椅子に座ってなお等身が下がったカーラを見下ろす。
普段ならそんなこと言わないだろうことはあたしも分かっていたし、忘れてと言われれば普段なら見逃すのだが、なんだか今日はそういう気持ちになれなかった。
「なんでも、ない。ほんとに。本当に。だから、気にしないで」
なおも顔を隠しながらそう言う。
うーん。なんだかなぁ……。とあたしは顔を上げないカーラを見つめながら首をかしげる。
いつもニヤニヤして、何かにつけて、理性的で、感情的になるとすれば、怒るか、泣くくらいなもので。たとえそうであったとしても、基本的にそんな場面はあまり見せたがらないこいつのいつもと違いすぎる状況に疑問しか湧かない。
本当に口が滑っただけなのかもしれない。
それこそ、一瞬理性が吹っ飛んだだけなのかも。
こいつでもそんな時があるんだなとぼんやり思う。
本当にぼんやりと思う。
「サ、サラ……?」
見下ろしながら考えこんでいたあたしを顔を覆っていた腕をずらしながらカーラが伺っている。
「理性の対義語ってなんだ?」
「は……?」
「いや、理性が必要ないんだったら、残るのは何だろうなと思って」
「うーん……」
ようやく、顔を覆っていた腕をどけて、カーラは考えこむ。
先ほどは赤みを帯びていた頬も冷静になったのか、色を失っている。
ちょっとは理性、戻ってきたか? とその様子を見つめる。
「野生? 本能? 感情? 言われてみれば、なんだろう?」
「無くしたら、お前の取り柄なくならないか?」
「俺の? サラから見て、俺ってそんな理性的?」
これまた変な問いを返された。お前なんて理性くらいが取り柄じゃないのか? いや、そんなことはないが、こいつが理性的であるが故に自分が自分勝手できていることをあたしは理解している。
カーラ曰く、常識がないあたしがそれでも自由に、こいつの前では何もかもだらしがなく曝け出していても何かに脅かされることがないのは、おそらく、こいつが理性的であるが故だ。
カーラはいつも言っている。
俺以外の前でこんなことするな。目の前にいるのが俺じゃなかったら大変なことになっている。俺が理性のない奴じゃなくてよかった。
そんなことを。
あたしは常識がないので、なんでこいつがそんなにくどくど文句を言うのか皆目見当がつかないが、こいつが理性で何かを我慢しているからなのだろう。
うん……? そう思うと、あたし、こいつに何か我慢させているのだろうか?
理性なんてなければいいのにって思うほど?
「だって、お前、いつもあたしに言うだろ。俺が理性のない奴じゃなくてよかったって」
「あ、うん……。まぁ……」
「それに、理性、なくしたことあるだろ、お前」
理性というか、あの場合は意識なく行動させられていた。それこそ野生、本能だけで動いていたようなものなので、理性をなくしたというと語弊があるのかもしれないが、ほんの少し前の騒動でカーラはバケモノと化し、あたしを襲った。理性のない獣のように。
捕食することもしくは、獣が獲物とじゃれるかのように、楽しそうにギラギラと瞳を輝かせて笑いながら、あたしの片足の肉を削いでは、その血を舐めていた。
あの時は柄にもなく、こいつを怖いと思った。
思えば、理性がないというのはああいうことを言うのかもしれないし、そうであるなら、それこそこいつの取り柄は理性だと言える。
理性を失えば、あんな狂気が表に出るのだと言うのなら。
「そ、れは……」
気まずそうにカーラは私の右足を見つめている。
正確には右太もも。今はスカートに隠れているそこを見つめている。
あたしは、スカートをたくし上げた。
「は!? ちょ、ちょっと、何やってんのサラ!?」
女の子がそんなことしないでよ!! と大声で叫んであたしの手からスカートを下げさせようと必死になっている。
「傷はもうないって分かってんだろ。そのくせ、そんな顔してるから、見たほうが早いかと思って」
そう言って、スカートをたくし上げているあたしの手をつかもうとするカーラの手をよけて、カーラの眼前に太ももを突きつける。
カーラは座っているので、目線はちょうどよくあたしの太ももに行く。
当たり前だが、そこに当時の傷はない。
その様子を見て、カーラは盛大にため息をついた。
「隊長、最低」
「はぁ? お前がそんなわけのわからない顔してるからだろ?」
カーラは片手で顔を覆いながらあたしの手に手を伸ばしてくる。
どうあってもスカートをたくし上げていることをやめさせたいことは分かったので、その手を受け入れて、スカートから手を放す。
ぱさりとスカートが太ももにかかる。
「だから言ってるんだよ」
顔を覆った内側でカーラは小さくつぶやく。
「理性、必要だと思う?」
指の隙間から伺えるその目はどこかあたしの肉を持って行った獣の目に似ていた。
「……?」
そのまま虚空を見つめたカーラにあたしは首をかしげる。
質問の意図が分からない。
「隊長は俺に理性があることに感謝してほしい」
昏い暗い、なんだか苦しそうな声でカーラはそう言った気がした。
「まぁ、お前がまた前みたいに暴れたら、あたしが止めてやるけど?」
だから、そんなに苦しそうにしなくてもいいのにとあたしは思う。
多少、怯むかもしれないが、こいつになにかあればいつでも止めてやる。
だから、そんなこと心配しなくていいと思う。
「そういうことを言ってるんじゃないよ」
やっぱり、どこか苦しそうにそう言ってカーラは顔を上げた。
そこにはいつもの笑顔があるけれど、なんだか、それをさみしいと思った。
「隊長。俺、何度も言ってるけど」
そう前置きをして
「俺以外の前でそういうことしないでよ? 目の前にいるのが俺じゃなかったら、本当に大変なことになってる。それに……。もし、サラが誰かにそんなことしたら、俺、その誰かを殺さずに済む自信がない」
顔では笑顔を作りながら、やっぱり目は少し怖かった。
「はぁ……?」
とりあえず、こういうことはするなと言いたいことは分かったので、しないようにしようとは思う。
ただ、なんで、それで誰かを殺すことになるのかはちょっとよくわからない。
そんな怖い顔しなくてもいいのに。
「ねぇ。聞いてる?」
呆けていたからか、カーラがちょっと怒ったようにそう言った。
「あぁ。分かった」
「ほんとに分かってるのかなぁ……」
「あたしはそこまで馬鹿じゃないんだが?」
あたしの返答に、そうだね。と呆れたような返事が返ってきた。
そうして、カーラはあたしの服を畳む作業に戻ったようだった。
それを見届けて、あたしもテーブルに戻る。
カーラをぼんやり見つめながら、少し冷めたコーヒーに口をつける。
あたしは知らない。
コーヒーに気を取られたあたしを、カーラがやっぱり獣のような目で見つめていたことを。
それでもあたしは知っている。
こいつは理性の塊だってことを。
けれど、その心中を理解してやらないあたしはもしかしたら薄情だったかもしれないなんて、何年後かに思うことをあたしはもっと知らないのだった。
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