エルピス七不思議

「郵便配達人さんは、エルピスの七不思議って知ってますか」
 いつもの御茶会を始めようとお茶を差し出したところ、由紀さんが唐突にそんなことを言い出した。
「はい? 今なんと言いました?」
 聞きなれない言葉に僕は目を丸くした。
 え、なんて言いました?
「エルピス七不思議です。最近、いろんな方から耳にするもので」
「はぁ……」
 これまた、嫌な噂話が流れているものだと僕は顔を伏せる。
 目の前に座る彼女には話していないことではあるが、僕はこの組織、世界防衛機構エルピスの幹部だ。
 つまるところ、エルピスに変な噂が流れているのであればそれなりの対処を求められる立場にあるのだった。
 郵便配達人、もしくは隻眼郵便配達人と呼ばれるただの郵便配達をしているしがない人間である今の僕はあくまで仮の姿。
 本来は、カイト・エンタイア・グローモスという厄介な名前を背負ったこの組織の実質ナンバー2である。
 こんな時のために仮初の姿をしているわけではないが、こういう時に役に立ってしまうのが、悲しいかな僕の実態だった。
 しかし、それを気取られないように僕は彼女に続きを促す。
「何ですか、それ。僕はここに長くいますが、そんな話一度も聞いたことがないのですが」
「どうやら最近広まった話みたいで。郵便配達人さんと同じように、ここに長くいるカーラさんにもこの話をしたんですが、そんなのは初耳だって言ってました。七不思議にされている内容には覚えがある様子でしたけど……」
 と彼女は言う。
 エルピスに所属して10年以上が経つあのカーラ君ですら初耳と言うのであれば、確かに最近広まったのだろう。
 あれで彼は何かと情報通なのだ。僕のこともいつ気付くかひやひやさせられているくらいには。
 そんな彼が初耳だというのであれば、それは確実に最近広まったものであると言って差支えないだろう。
「見聞が広い彼がそう言っているのであれば、間違いなく最近広まったものでしょうね。それで、その七不思議とはどんなものなのですか?」
「そうですね……。七不思議と言っても、私も聞いたものしか分からないんですが、知ってるものをお話ししますね」
 と、彼女は語り始めるのだった。

***

 『呪われた絵画』

 世界防衛機構エルピスには、たくさんの絵画が飾られている。
 ここは各国から支援を得ているとは言っても、高級絵画を購入できるほどの資金は持っていない。
 だって、そうだろ。
 この組織はたくさんの人間の食糧や支給品、武器、薬品などでそれはそれは各国から頂いた支援もギリギリで動いているんだから。
 それにも関わらず、ここにはたくさんの絵画が飾られているんだ。
 君も見たことがあるだろう?
 数十、いや数百はあるんじゃないか?
 資金ギリギリで回っている組織にあるまじき数だとは思わないか。
 何なら、これだけある絵画のそれぞれの絵を覚えて、それを目印に歩けばエルピスで迷子になることはない、なんて言われているくらいだよ。
 それくらいこの建物には絵画が飾られている。
 おかしいよね。
 資金がないにも関わらずそんな絵がたくさんあるなんて。
 僕が聞いた話では、何十年も前からこれらの絵画は飾られているんだって。
 ちなみに、それらの絵にはサインが入っているんだけど、君は見たことがある?
 サインにはウィルスタインって名前が入ってるらしい。
 聞いたことある?
 僕はないんだ。
 そんな画家、聞いたこともないし、もしかしたら組織の人間かもって思ったりもしたんだけど、そんな名前の人間が所属してた記録はないし、ここに飾ってある絵の画風に見覚えもないんだ。
 無名だったんじゃないかと言われてたりもするけど、こんなすごい絵を描く人が無名なんてことあるかな?
 それにこの絵には怖い噂がある。
 ほら……玄関に大きな絵が飾られているだろ。あの……戦場の天使の絵だよ。
 僕が聞いた話じゃ、あの絵は夜な夜な動くって言われているんだ。
 絵自体が動くとも言われてるし、絵が抜け出して歩いてるなんて言われている。
 それに……僕も見たことがあるんだ。
 あの絵の目、光るんだよ。
 え、そんなの大したことがない?
 いや、本当なんだって。お前も、夜見に行ってみろよ。
 すごく冷ややかな緑色の目がこっち見てるからさ。
 英雄様な戦場の天使の絵だろ。そういうこと言うのはやめろ?
 でもだって、本当に怖いんだって。
 いいから見に行ってみろよ。な?
 だから、ここにいる奴らの間ではこう言われてる。
 この絵画たちは呪われていて、引き取り手がなかったから、こんな組織に全部押し付けられたんじゃないかって。
 言われてみれば、怖い絵も多いし……。
 お前も気を付けろよ。
 気を抜いたら、絵に呪い殺されるかもな。

 『エルピスに漂う幽霊』

 あなたは聞いたことがある?
 このエルピスには幽霊がいるんですって。
 まぁ、戦争に投入されて死ぬ人間がごまんといる組織だもの。死んだことに気付かなくて帰ってきちゃう幽霊がいるなんて言うのはありふれたお話しかもね。
 でもね、ここにはただの幽霊って言うにはちょっとおかしいんじゃないかって言われる幽霊がいるのよ。
 なんでもね、そいつは、この組織に何百年もいるんですって。
 姿形も変わらないで何百年も漂っているのよ。
 幽霊だから当たり前じゃないか? ですって?
 けれど、何百年も前からよ?
 いくら幽霊といえど何百年も経ったら成仏しないかしら。
 それに、この噂の何より怖いことが、その幽霊、組織の人間として紛れ込んでるんですって。
 ほら、聞いたことない?
 この組織、姿を見ないのに名前だけ登録されている隊員がいるって話。
 しかも、在籍年数が遡る限り数百年だっていうのがいるのよ。
 え。ただの死亡記録漏れじゃないかって?
 そうかもしれないけど、そんなもの放っておくかしら。
 各国から資金援助を受けているのよ? 隊員の在籍記録にミスなり改竄があったら、各国から後ろ指刺されると思わない?
 だって、彼らがここの組織に援助しているのは、私達を敵に回したくないからよ。監視の目的も兼ねているに決まってるわ。だから、いもしない隊員を所属なんてさせてるわけがないわ。
 だからこそ、すごく気味が悪いでしょ。
 こんなの、幽霊が隊員として所属しているとしか思えないじゃない?
 もし、姿を見かけない隊員や、いつまで経っても容姿の変わらない隊員がいたら気を付けたほうがいいわ。そいつ、幽霊かもよ。

 『血まみれの牢獄』

 聞いたことあるか。ここの組織には、10年近く前、すごい惨殺事件があったんだって。
 え、聞いたことない?
 そりゃそうだよ。
 10年近く前から所属してるやつらにその話聞きに行ってみろ。全員血相変えて、知らないって言うんだぜ。
 何か作為的なものを感じるよな。
 これは、この前の戦争でおっちんだ旧友がこっそり教えてくれたことなんだ。
 ここの地下に行ったこと、あるか?
 地下には牢獄があってさ。
 は? なんでそんなものがあるのかって?
 まぁ、今はそうそうないが、過去には敵を拷問してたりしてたらしいんだよ。
 あとは、隊員の折檻とか謹慎に使われたりしてるみたいなんだけど。
 それで、まぁ……あんまり衛生的に綺麗な場所ではそもそもないんだけどよ。
 ある牢屋がやばいの何のって。
 一番奥に拷問してたにしては、すごく血が飛び散っている牢屋が一つあるんだ。
 もう、それこそ、一面血まみれ。
 壁から天井まで余すことなく血で染まってるんだ。
 あと……たぶんそこに横たわっていたんだろうなっていう人間の痕が残ってるんだよ。
 それが恐ろしいこと、10……くらいあったかな。
 でさ……、なにより怖いのが、その部屋、掃除されてないんだよ。
 いろんな残骸が散らばっててさ。
 で、俺見ちゃったんだ。
 落ちている残骸がどう見ても隊服の一部なんだよ。
 そりゃ、見るも無残に朽ち果ててたから、絶対にそうだとは言えないけど。
 でも、ほら、うちの隊服には必ず赤い炎のエンブレムが入ってるだろ? それにドックタグだってあるだろ。
 どう見たって、うちの隊員のものだったんだよ。
 なぁ……、10年前にあった惨殺事件って、内部で起きた隊員同士の殺し合いだったんじゃないか?
 そうでもなければ、10年前から所属しているやつらの態度があんなに怖そうな顔してる説明がつかないだろ?
 それでさ……これは俺の憶測なんだけど、その犯人、まだ組織内にいるんじゃないのか……?

***

「と、私が聞いたのはこんな感じですかね……」
 と、彼女は、おそらく聞かされた語り草なのだろう口調で話し終える。
「……」
 うわぁ……と僕は返す言葉を失った。
 とんでもない。
 とんでもない噂話が広まっている……。
「郵便配達人さん?」
 何も答えられず、口をぱくぱくさせていると彼女が不安そうにこちらを覗き込んだ。
 視線が合って、ドキリとする。
 まずい。何かを言わないければまずい。僕はとりあえず、席を立つ。
「あ、その、そういえば、最近、おいしいお茶菓子が手に入ったので、ちょっと取ってきますね」
 それだけ言い残し、部屋を出る。
 呼び止められた気はしたが、とりあえず、キッチンに入って僕はため息をついた。
 さて、困ったことになった。
 というか、これ、カーラ君どんな気持ちで聞いたんだ。
 彼、絶対に、ただで済んでないよね……というか、変な気を起こさないでくれよ、と最近は笑顔を絶やさず、以前に比べればかなり角が取れ、丸くなった彼に届くはずもない念を送る。
 さて。
 なんのことはない。
 これらの噂話は8割方事実だ。
 だからこそ、大変なことになったと僕は頭を抱える。
 これは一層面倒くさいことになっている。
 なぜ、今になってこんなことに!!
 あー。だから、不安要素は消しとけとアジェンにあれほど……。
 いや、消されていたはずだ。
 300年前から続くこの組織に後ろ暗い過去がないわけではない。
 僕はとある事情でほぼ不老不死に近い状態になっているため、200年この組織に所属しているが、その間でもそうそう口にできないような事柄はいくつもあった。
 それでも、探られて痛いことはできるだけ隠ぺいしてきたのだ。
 長く続く組織であれば、そういうことと無縁に行かないこともある。組織を円滑に回すために致し方ないことだった。
 完全潔白なんてこの世にない。
 いかに世界を、敵たる神族から守るために創られた組織と言え、純然たる白と言うわけにはいかないのだ。
 その闇の一つである自分は、それらを隠すためにいると言っても過言ではない。
 例え、純然たる白でなくとも、ありとあらゆる国から支援を受けているこの組織を完全とは言えなくとも、完全に白く見えるように振る舞うのが、僕やこの組織の長であるアジェン、そして、幹部の仕事である。
 完全潔白はなくとも、完全潔白に振る舞うしかないのだ。
 それこそが、下につく者たちに不信を感じさせず、組織を回す方法なのだから。
 たとえ、それでいくつかの犠牲が出ようとも。
 この組織を成り立たせるためなら、闇を丸めこめる。凄惨な過去を隠し通せる。
 全てはいずれ、世界を脅威から救うために。
 醜いことだな、と思う。
 けれど、そう思ったところで世界とはそういう歯車で動いているのだ。
 だからこそ、現在、組織内で広まっている噂は厄介だった。
 『呪われた絵画』については、あれらの絵を描いた画家を知られると面倒だからこそ、誰も何も言わなかっただけだ。
 画家の名は偽名で、ここで生み出され、ここで消費されているから有名であるはずもなく、その画家のことを誰も知っているはずがないのだ。
 そう、その画家こそ、誰かに知られると面倒な男、アジェン・ナーウィルである。つまり、ここの現総長である。
 総長が描きましたと大々的に言っても構わないのだが、描いている絵が描いている絵であり、また、過去作については300年近く前でその風化具合から、総長が描きましたなどと言ってしまうと彼の年齢が一体いくつなのだという話になってしまい、いろいろとことを面倒くさくなるからだ。
 絵の内容次第では彼の信用問題に関わるので、このことを知っているのは、彼自身と僕だけだ。
 僕らが口外しなければ、誰にも知られずに済むので、まぁ……これは放っておいていいだろう。
 絵が動くだの、呪われるだのは噂好きがつけた尾ひれでしかない。
 絵が動くなんて事象あるわけがないだろう。呪いもまた然りだ。
 あぁ……でも、目が光るのだけは否定できないので、夜間にあのあたりの照明を明るめに調整しておいた方がいいだろう。
 見られて困るものではないが、変に興味を持たれるのもよろしくない。
 目が光るのは蓄光塗料によるものだ。噂で広まっているのが目が光ることなだけなのであるなら、あとはそれが分かりにくいように工作しておけば、いずれ噂は消えるだろう。
 噂は風化するものだ。
 『エルピスを漂う幽霊』。これについては、その幽霊は僕だ。
 なんでそうなったと聞きたいが、これは、僕がナンバー2でありながら、普段は郵便配達人として組織内に潜伏しているので、昨今余計に表に出ることが無くなったからだ。
 せっかく、正体を隠しているのに、表に出てしまっては今の仮初の姿が無駄になってしまう。
 現にこのような形で役に立っているのだし、この姿の有用性を考えれば、アジェンが僕に表に出ろと言うことはないし、このまま幽霊にしておいても別に僕自身も困るわけじゃないので、まぁいいだろう。
 幽霊などと言われているのは不名誉だけど……、致し方ない。
 そして、最後の『血まみれの牢獄』。これはもうこの組織、エルピスの最大の闇だ。
 藪蛇だから突くなと言いたい。戦争でおっちんだ話し手の旧友は、口止めしておいたのに話したということだろう。たとえ生きていたとしても、この組織に消されていたに違いない。もう死んだ人のことなので、その人のことは置いておこう。
 それより問題は話し手だ。
 この噂を広めた出所。
 これは、おそらく、隊規則を犯し、謹慎で牢獄にいれられた隊員を探ればすぐに分かるだろう。
 少なからず、これだけは口外させないように処理する必要がある。
 なぜなら、噂はほぼ事実だからだ。
 実行犯は今も生きている。
 だからこそ、幹部側で話し手に策を講じておく必要がある。
 あの、笑顔が貼りついている実行犯が、何かしでかす前にね。
 本当に、この噂、彼はどんな気持ちで聞いていたのか、聞きたい。
 いや、聞きたくない。
 今の彼であれば、何もしないと信じているけれど、まぁ……しないにしても手を出す可能性はおおいにあるので、早急に手を打って、この噂を根絶しなければならないだろう。
 あー。本当に損な役回りだ。
 聞くんじゃなかった。などと思いながら、自分の立場上そうも言ってられないので、僕は、何も持たず、由紀さんのところへ戻ることにした。
「郵便配達人さん?」
 手ぶらで戻ってきた僕に、お茶菓子を取りに行ったのでは……? と不思議そうに彼女がこちらを見ていた。
 努めて、申し訳なさそうに、僕は言う。
「由紀さん、ごめんなさい。急な仕事が入ってしまいまして。せっかくお茶にお誘いしたのに、申し訳ありませんが、今日はここでお開きでもかまいませんか?」
 本当に申し訳ないとは思うが緊急事態のため、こう言わざるを得ない。
 彼女には次の御茶会の際、とびっきりおいしいお茶菓子を用意してお詫びしようと思う。
「そうですか……。大丈夫ですよ。また誘ってください」
 そう言って、彼女は立ち上がる。
「あ、由紀さん」
 彼女が帰る前にいくつか手に入れておきたい情報があった僕は、彼女を呼び止める。
「お帰りになる前にいくつかお聞きしたいのですが」
「はい」
「先ほどの七不思議、どうして僕に?」
 一つ目は僕に話した経緯だ。
 いつもの御茶会の話のネタで持ってきただけという可能性もあったが、一応聞いておきたいことがあった。
「えっと、カーラさんに話したら、郵便配達人さんに話してあげたら? と言われたので。郵便配達人さんならそういう話が好きだと聞いたのですが、違いましたか?」
「いえ、そんなことは。僕、噂話は好きですよ。また何か面白い話があったら教えてください」
 彼女の返答で、カーラ君が僕に誘導したことが分かる。
 彼はわざと僕にこの話を聞かせたかったのだろう。
 と、なれば。
「カーラ君は他に何か言っていましたか?」
「他に……ですか?」
「えぇ。この話は他の人にするな、とか。誰に話したか、とか」
「えーと。たしかに、それに近いことは言われたかもしれません。すぐに郵便配達人さんに教えてあげてって。誰に話したかも聞かれました。それが何か……?」
「いえ、気になっただけですから」
 二つ目は僕に誘導した彼の真意だ。彼女の答えで確信を持つ。
 彼もまた動こうとしていることが分かった。
「由紀さん」
 そして、最後に彼女に言い聞かせるように声をかける。
「その噂、ここだけの秘密にしていただけますか」
「えぇ。でも、どうしてですか?」
「噂は噂ですよ。あんまり変に広まって、不利益を被る方がいても困るでしょう? ですので、今日の話はここだけの秘密で」
「わかり、ました」
 由紀さんは聞き分けがいい方なので、その返答を聞いて、僕は微笑む。
「お引止めして申し訳ありません。次の機会には、おいしいお茶菓子かならず御馳走しますので」
 誠心誠意の謝罪を込めて、次の約束を取り付ける。
「わかりました。次の機会、楽しみにしています」
 部屋を出、廊下まで彼女を見届ける。
 後ろから誰かに睨まれている気がしたが、彼女を見届けるまではその気配に気付かないフリをする。
 彼女が見えなくなったところで、僕は後ろを振り返った。
 そこには予想通りの人物が立っていた。
「おや。こんなところでお会いするなんて珍しいですね」
 後ろにいた人物は、青い髪をした小柄な青年。
 僕が訪ねようか考えていた人物であった。元より、本人が由紀さんをここに誘導した以上、訪問する必要はないだろうと思っていたが。
 珍しいなんてでまかせもいいところだ。分かっているくせに。と言われている気がする。
「由紀ちゃんと何を話していたの?」
 両手を頭の後ろに置きながら、いつもの貼り付いた笑顔で彼は言う。
 それこそ、分かっているくせにと思うが、それは口に出さない。
 彼が、由紀さんが他に噂を広げる前に僕の元へ向かわせた以上、彼に敵意がないことは分かっている。
 しかし、僕がエルピスの幹部であることは彼も知らないはずなのに、である。
 これ以上、彼に深入りさせることは、僕も総長であるアジェンも望まない。
 だから、会話には細心の注意が必要だと、僕もまた、余所行きの笑顔を貼り付けた。
「どうやら、変な噂が広まっているという話をしていたんですよ。カーラ君も聞きましたか?」
 あえて問う。
 そこまで聞き及んでいるなどと言えば、彼から不信を買うだろう。
 だからこそ、何も知らない体で聞く。
 あちらだって、自分で彼女を誘導したくせに、何を話していたの? などと聞いてくるのだ。
 こちらも何も知らないフリをして会話をした方が得策だろう。
「へー。変な噂、ね。たとえば、血まみれの牢獄、とか?」
 にやりと彼は笑う。
 それはそれは、とても悪い顔で。
 でも、どうしてでしょうね。それがあまりにも痛々しく思えるのは。
 それが彼の最大の強がりだと思えてしまうのは。
「エルピス七不思議、だそうですね。その様子だと、あなたも聞いたようですね」
 彼は、なんだ、つまらないといった顔をしている。
 彼は彼なりにどうやら僕に何かをけしかけたかったようだが、あては外れたらしい。
 あーあ。つまらない。と言いたいのだろうと見て取れる顔をして、彼は肩をすくめる。
「あんたと腹の探り合いしてもしょうがないから、単刀直入に言うよ。由紀ちゃんがその話をした相手は全部うちの部隊の人間だから、その辺の口止めはしておくよ。だから、あんた達はあんた達の仕事をしてくれればいい」
 へー。それはそれは。
 お気遣い、痛み入りますね。
 けれど、僕にそれを言ったところでどうしたいのでしょう。
 あくまで、今の僕は郵便配達人だ。
 それ以上でもそれ以下でもない。
「それはありがたいですが、どうして僕にそれを? 僕はしがない郵便配達人ですよ」
 と、僕は何も知りませんよという体を貫く。
 それを見て、彼は、呆れたようだ。元から、笑顔が貼りついているとは言ってもまったく笑っていない目が、今はことさら冷ややかな目をしていた。
「まぁ、そう言うならそれでもいいけど。あんたがただの郵便配達人でもそうでなくても、俺には関係ないし。でも、これから、総長のところへ行くでしょ。だからだよ」
 本当にどこまで気付いてそれを言っているのか聞きたくなるが、触らぬ神に祟りなし、だ。
 こちらも突かれると嫌なことだらけなので、知らぬ存ぜぬを貫く。
 僕は、本当にただのしがない郵便物を届けるだけの下っ端ですよ。
「それはそれは。つまり、総長にそうお伝えしておけばよろしいですか?」
「それ、わざと言ってる?」
 やや強めの口調で返される。
 正直、彼はほとんど僕の正体に気付いているのだろう。
 けれど、真実だけは絶対に何があっても見せるつもりはない。この組織の闇に、隠したいことに、一般隊員である彼に突かせないためにも。
 それは、彼のためであり、この組織のためだ。
 言っていないことは真実にはなり得ない。
 だから、僕が黙ってさえいれば、彼が僕に抱いている事柄は全てただの彼の憶測に過ぎないのだ。
「いいえ」
「じゃあ、もう俺からは特に言うこともないよ。あんたらがあんたらの仕事をしてくれれば俺はそれでいい。ただ、ちゃんと処理してくれないなら、俺は俺でしたいようにするだけだから」
 と、本当に鋭い瞳で睨まれる。
 笑顔だなんてとんでもない。口が上に吊り上っているだけで、笑顔なんてほど遠い顔をしている。
 人でも殺しそうな目だな、と思う。
 これ以上、彼の不服を買っても得ではないことは分かっている。
 だから、ほんの少し譲歩をする。
「ご安心ください。総長には、ちゃんとあなたに損がないようここで見聞きしたことをお伝えしますから」
「そう」
 それが功を奏したのか、そうでないのか。
 もうどうでもいい。飽きた。とでもという顔をして彼は帰っていった。
 この組織に属しながら、彼は僕やアジェンを信用していない。
 過去の事件。それこそ10年前のある事件、故だ。
 だから、彼は僕を挑発し、僕からボロを出させ、何かを得たかったのだろうが、申し訳ないことに、それくらいのことで乗せられてあげられるほど僕は若くなかった。
 20歳前後の見た目に対し、10倍老けている僕の心はきっと彼が僕に対して抱いている想像よりもずっと冷めている。
 年の割に子供のようなことをするアジェンならそうでもないのかもしれないけれど。
 僕は、アジェンより、一層心が冷たいだった。
 心が冷たい僕は、今日もこの組織の闇を、黒を消しに行く。
 カーラ君が損をしないため、などと口にしているがそれが全てではない。
 この組織のために益のあることを僕はするだけのことだ。
 ただのしがない郵便配達人は、組織のナンバー2としての顔に切り替えて、総長の元へ向かうのだった。 
 
 
 
 そして、エルピス七不思議などというよからぬ噂は、その日を最後に話題に上ることはなくなった。

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