JK達がオムライスを食べるだけの話

 カランカラン
 扉を開けたと同時に渇いた鈴の音が鳴る。
 鈴に渇いた? きっとおかしな表現だね。
 でも、今の私にはこの鈴の音がただただ無価値に思えて、渇いたとしか表現できそうにもなかった。
 価値のない日常に鳴り響くセピアの音。
 色褪せた音色。
 鈴が乾いているわけではないと思う。
 乾いているのは私の人生だ。無価値なのも、多分私の人生で。
 鈴が乾いた音を鳴らしているわけでも、無価値な音を鳴らしているわけでもないのだと思う。
 どうして、私の人生で、見る目で、世界はこんなにも色褪せてしまうんだろう。
 ため息が出てしまいそう。
「いらっしゃいませー」
 明るい声。
 それこそ鈴を転がすような声っていうのはこういう声のことを言うのだろう。
 透き通った声が店内に響く。
 ショートヘアーのお姉さんが厨房から顔を出した。
 声の主はこのお姉さんなのだと分かった。
 セピア色のエプロンを身にまとったお姉さんが私に笑顔を向ける。
 その笑顔が自分に向けられるべきものと思えない私は……俯いてお姉さんの顔を直視しなくて済む下方を見つめた。
「何名様でしょうか」
 きっと悪気なんて全くない。ありふれた決まり文句。マニュアル通りの言葉。
 見れば分かるそんな問いに私は人差し指を立てて応えた。
 こんな時間に学生一人なんて変だと思われないだろうかとビクビクしながら、お姉さんにどうぞといわれるがまま、案内された席に着いた。
 木製の机とイス。白い壁。それに差し込む日の光に、このお店がセピアの名を冠する理由が分かる気がした。
 お姉さんは私が座るのを確認すると茶色のメニューを差し出した。
「ごゆっくりどうぞ」
 そういってお姉さんは水とお絞りを取りに下がった。
 差し出されるメニューをぼんやりと見つめるころには、ようやく今自分が置かれている状況を理解しようと頭が回り出した。
 暖かい日差しが差し込む窓際の席。
 平日の静かなお昼前のこの席から見える景色はなんとなくいつもと違うように思った。
 人、少ないな……。
 店内を見回す。
 土日だと満席のこの小さな喫茶店も、平日だとこんなにもがらがらなのだと知った。
 少し離れた席に座る新聞を読むおじさん。
 本を読んでいる多分大学生だろうなと思われるお姉さん。
 香る珈琲の匂いは、どこか大人の香りだ。
 まるで、ここにあるのは大人の時間だとでも言うように。
 妙にのんびりとした時間がここには存在していて、私が普段過ごしている慌ただしくて、気を抜くと置いていかれてしまいそうな子どもの時間との違いに面食らってしまった。
「お待たせしました」
 突然降りかかってきた声にびくっとする。
 声のした方を見上げればさっきのウェイトレスのお姉さんがいた。
 そうだ、お水とお絞り……。
 すっかり、大人達の時間に飲み込まれてしまっていて、その存在を忘れていた。
「ご注文が決まりましたらボタンでお呼びください」
 決まった言葉を言ってお姉さんが去って行くのを見送って、注文を決めていなかったことに気がつく。
 なんだか、ぼーっとしている。
 いつもと違う。
 いつもと違う世界に迷い込んでしまったようで背徳感を覚えながらも浮き足立っていて、ふわふわしている自分がいる。
 そうだ。今日はいつもと違った。
 なぜだろう。
 いつもの時間、いつもの通学路、いつもと同じ日々。
 ただ繰り返せばいいだけの毎日。それだけの日々。
 どうしてか、今日はそこから抜け出したくなってしまった。
 いつもと同じだったはずなのに。何故だろう。
 こんなことをしても意味ないはずなのに、なぜか抜け出してきてしまった。
 いつもと同じ通学路から道を外れて、この喫茶店に入ってしまったのだった。
 今日も学校があったはずなのに。
 私はサボってしまった。逃げてきてしまった。

 そうだ。私、サボっちゃったんだな。

 なんて、今更ながらしょうもない現実感が沸いてきた。
 何があったってわけじゃなくて。
 なんだか逃げ出したくて、逃げてきてしまっただけで、意味なんて、理由なんて特になくて。
 ただ、逃げたくて、抜け出したかっただけ。
 それだけだった。
 いじめられたとか、誰かと喧嘩したとか、失恋したとか、宿題が出来なかったとか……
 そんな理由は何一つなかった。
 私の日常は何の変哲も無いありふれたものだった。不幸でも幸せでもない。でも、不幸ではないから、そんな私を人は幸せって言うのかもしれない。なんて思った。
 だから、理由も、意味も、本当に何もなかった。
 逃げたくなっただけだ。
 あの眩しくて暗い、たった40人ばかりの小さな教室から。
 教室の景色、誰とも知らない話し声を思い出して私はそれを振り払うように首を振った。
 もう、逃げてきてしまったのだ。思い出しても意味がない。
 そう言い聞かせて、私はメニューを見つめることにした。

 何食べよう……。

 喫茶店に入ったのはいいものの、とくに何が食べたくて入ったわけでもなかった。
 改めてぼんやりメニューを見つめる。
 モカ、ブルーマウンテン、キリマンジャロ、コロンビア、ブラジル。
 地名だったか、山の名前だったか。
 違いのよく分からないコーヒーの名前の羅列が並ぶ。
 その下にもダージリン、アッサム、セイロン……とまた分からない名前が並んでいる。
 きっとこっちは紅茶なのだろう。
 高校生の私には、子どもの私にはそれらの違いなんて全く分からなかった。
 なんだか、まだまだ自分が子どもなのだと思い知らされるようで面白くなく、それらを通りすぎて、メニューの下方へ視線を移す。
 今度はサンドウィッチやトーストといった軽食がいくつか並んでいた。
 そして、ランチやディナーにもってこいの洋食にかわいらしい名前のケーキたち。
 写真も付いていて、それらがどれだけおいしいかは想像できる。
 ただ、メニューに並ぶものは多すぎて、こんな喫茶店に入ることなんてなかった私は、何を食べていいのかやっぱり迷ってしまった。
 メニューに並ぶ字と写真を順に指で追う。
「……オムライス」
 ふと、その名前に目が行ってしまうと急激にオムライスが食べたいような気分になってきてしまった。
 ふわふわのたまごに甘酸っぱいケチャップライス。
 想像しただけで口の中で唾液があふれる。
 もう、これにしよう。
 そう思って、ボタンを押した。

 ピンポーン

 軽い呼び出し音が鳴って、ウェイトレスさんがやってくる。
 注文を聞く決まり文句に
「これを」
 とメニューを指差して応えた。
 やっぱり、なんだか、お姉さんの顔は見れなかった。

 お姉さんが去っていって、すっかり手持ち無沙汰になってしまう。
 年頃の女の子なら、こういうとき、スマートフォンを覗いたりするのかなと思いながら、一昔前の折りたたみ式携帯を鞄のポケットから取り出し、握り締める。
 こんなのじゃSNSもできないし、ネットも大して見れない。
 今時、メールをする人も電話をする人も大概いないから、この携帯はただ存在するだけの物でしかない。
 役立たず。
 ぽいっと携帯を学生鞄の中に放り投げる。
 鞄の中には教科書がびっちり詰まっていて、その何処かの隙間に携帯は沈んでいった。
 あとで探すの大変だなとぼんやり思う。
 あってもなくても困らないけど。
 あーあ。こんなに重いかばんを持ってきたのに、無駄なことしたなぁ。
 なんて心の中でつぶやいたところで予想外の声が耳に飛び込んできた。
「あれ? 小鈴? うわ、小鈴じゃん!」
 ありえない声と呼びかけに私はぎょっとした。
「え? えっと……」
 私の目の前に立って、やっほーと手を掲げる彼女は、今学校にいるはずのクラスメイトの一人だった。
「え、何? 小鈴サボリ~?」
「う、うん……。そうなの。サボリ」
 能天気そうな彼女の言葉におどおどしながら答える。
 サボリとすんなりと口から出たのは予想外だった。
 それと同時にサボった事実がなんだかあっさりと心の中で受け入れられるのを感じた。
「えっと、宮野、さん? もサボリ……?」
 宮野。宮野(みやの)愛(あい)。確かそんな名前の目の前のいまどきの女の子って感じの彼女に問いかける。
 普段、彼女とは全く接点がないはずで、あちらがこちらの名前を覚えていたことに驚いた。
「そ、サボリ。よくやるの。今日は体育もあるし、めんどくさいしー。あと、寝坊しちゃったしね」
 間延びしていて、それでいて茶目っ気もある話し方。
 愛され女子っていうのはきっと彼女のような人のことを言うのだろう。
 そんな彼女の話し方をうらやましく思う私がいる。
 私は彼女みたいにうまく話せないから。
「そ、そうなんだ」
 相も変わらずどもりながら、俯きながら、話す自分とは大違いで、なんだか悲しい気持ちになってきた。
 それと同時になんだか、ひどく違和感があった。
 私は普段クラスメイトと話すことなんてほとんどない。
 何を話していいかも分からないし、話し方はこんな風にどもるし、そもそも私は面白い人間じゃないので、面白いことも言えないし、どんな顔をしながら人と話していいか分からなかったから。
 だから、クラスではひっそり一人でいたのだった。
 誰にも見つからないように。穏便に暮らせるように。
 後ろ指を刺されなくて済むように。
 はずれ者にはなりたくなったから。
 だからこそ、この時間は違和感だった。
 普段の教室なら見向きもされない人と一緒にいる。話をしている。
 これ以上の違和感もむず痒さも緊張もなかった。
「隣、いい?」
 まぁ、ここに案内されたから、ダメって言われてもここに座るんだけどさ。
 なんて、言いながら問われた言葉に私は頷くしか出来なかった。
 別に嫌というわけでもない。
 違和感もむず痒さも緊張も消えはしないけど。
 彼女が座ったところで、何を話していいのか、そもそも話すべきなのかも分からず、不意に無音な時間が訪れる。
 小鈴こすず
 久しぶりに同級生から名前を呼ばれた、と思った。
 といっても、小鈴は苗字だ。
 小鈴。
 さっき、店内に入ったときに聞いた鈴の音を思い出す。
 鈴なんて、大して綺麗な音でもなんでもないのになぁ。
 いや、綺麗なのかもしれない。
 だけど、私にとっては、あまり好きな音じゃない。
 自分の名前に入っているだけでコンプレックスに思ってしまうから。
 私は、さっきのウェイトレスの声と笑顔を思い出す。ああいう人にはきっと似合う名前なんだろうな……なんて。
 気付いたら、また一人でぼんやりとしてしまっていた。
 隣をこっそり見ると宮野さんがいつの間にか注文を済ませていた。
 彼女に気付かれないように再び、視線を自分の机に戻す。
 宮野さん。宮野、愛。かわいらしい名前。
 隣に座る彼女はまさにその名にふさわしいと思う。
 彼女のことを再び盗み見る。
 透き通った肌も綺麗に整えられた指先も、内側にカールした髪型も、そして、ばっちり着こなした制服が似合う彼女はまさに愛らしくて、名前によく似合っている。
「ん? どうかした?」
 私の視線がいつの間にか気付かれていた。
 馬鹿みたいに盗み見てたのばれてる……。
「あ、いや、何でも……」
「そ? ていうか、料理遅くない? 小鈴私より先に入ってたんだよね?」
「う、うん……。そ、そうだね」
 厨房のほうを眺めるフリをして彼女から視線を逸らす。
 彼女から視線を逸らして、羨ましいなぁなんて思う。
 私の名前は、小鈴こすず平乃ひらの。
 よく、苗字と名前が逆でしょってからかわれる変な名前。
 しかも、平乃とか。
 名前らしいとかクソもないよね。
 それこそ、胸がないこの体が名前まんまなくらいじゃない。と胸を見て落ち込む。
 浅黒い子どもみたいな肌に体つき。髪の毛も特に手入れするわけじゃないからテキトーに切ったぼさぼさ頭。爪だって、めんどくさいから深爪に切ってあるくらいで。
 そんなんだから、小学生が高校生の制服着てるみたいでほんとださい。
 ほんと、彼女とならぶと月とすっぽんって感じ。
「はぁ」
 ため息をついて、慌てて口を噤む。
 彼女のことを再度見るとスマートフォンを見て何かを打ってるみたいで特に気にしてはいなかったみたいで安心したと同時にちょっぴり切なくなる。
 私だけが意識して馬鹿みたい。
 そうだよね。クラスで仲良い訳でもないし、気にするほうがおかしいよね。
 うん……。ほんと。
 私ってほんと馬鹿だなぁ。
 もう一度、机に視線を戻す。
 すると、ちょうど良くウェイトレスさんがオムライスを持ってきた。
「オムライスになります」
 注文をしたことも忘れそうになっていたオムライスが目の前に現れて、きゅっとおなかが締め付けられる。
 目の前に現れたオムライスは幼少の頃、親がファミレスに連れて行ってくれたときに食べたものよりふわふわとろとろしていて、おいしそうに見えた。
 隣の彼女を再度盗み見て、スマホをいじっているのを確認して私は手を合わせて、小さくつぶやいた。

 いただきます。

 一口、二口スプーンですくって口の中に放り込む。
 温かいというより熱いオムライスをはふはふしながら飲み込む。
 熱くて、ふわふわしたそれを飲み込むとなんだか、涙が出そうになった。
 涙が出るほど熱かったのもあるけれど、おいしくて泣きたい気持ちになった。
 オムライスってこんなにおいしかったかな?
 なんて思いながら。
 宮野さんが来てからすっかり日常気分に戻ってしまったけれど、このおいしいオムライスが再び私がいつもと違う時間にいることを思い出させてくれた。
 そうだった。
 私は、あの教室から逃げ出してここにいるのに、宮野さんが来てから教室にいるような気分になってしまっていた。
 そうじゃなかった。
 ここはカフェなのに。
 しかも、平日でいつもと違う、カフェなのに。
 教室にいるつもりになってちゃもったいなかった。
 だって、私はあそこから逃げてここに来たんだから。
 せめて、このありえない一日を楽しまないともったいなかった。
 三口、四口とオムライスを頬張る。
 熱くて、おいしい。
 あったかくて、おいしい。
 こんな気持ちになったのいつぶりだったかな。なんて思って。
「小鈴ってさー」
 不意に横からつぶやかれて、またしてもびくっとした。
「学校サボるように見えないよね。今日はどうしたの?」
「え?」
 真っ先に聞かれても良かった問いを今更聞かれ、私は困ってしまった。
 答えたくなかったら答えなくてもいいんだけどさー
 と彼女はアイスティーのストローを弄びながら、こちらに視線を向けるわけでもなかったけど、私の答えを待っているように見えた。
 答えを待ってくれていると分かった瞬間、さっきまで感じていた教室にいる感覚とは違うように思った。
 あ、そうか、彼女も含めて、今はいつもと違うのかもしれない。
「なんでと聞かれても困っちゃうんだけど」
「うん」
 素直に頷いて話を聞いてくれる彼女にやっぱり不思議な感覚を覚える。
 私は彼女と大して関わりもなくて、教室の中にただ一緒に放り込まれてるだけの関係で、友達というわけでもなくて。
 なのに、どうして聞いてくれるんだろう。
 変な感じ。
 だからか、ほんとのことを言ってもいいかなと思ってしまった。
 この、ありえない平日の優しい日の光のこの夢か現実かよく分からなくなるような空間だから。
「私、よくわかんないけど逃げたくなっちゃったの。いつもどおり制服着てさ、いつもどおり通学路を通っていたはずなのに、気付いたら道をそれてこの喫茶店に入っちゃってたの」
 変だよね。
 と笑って。
「変じゃないよ」
「え?」
 彼女のつぶやきの先を聞こうとしたところでタイミング悪く、彼女の席にウェイトレスさんがやってくる。
 ウェイトレスさんは彼女の机にオムライスを置くとまた厨房に消えていった。
 私の物とほとんど姿形の変わらないオムライス。
「一緒じゃん」
 宮野さんが私のオムライスを見て笑った。
「う、うん」
 私も、精一杯の笑顔で答える。
 彼女が食べ始めるので、私も続きを食べる。
 少し冷めてしまったオムライスだけど、悪くないと思った。
「さっきの話だけど、別に小鈴変じゃないし、っていうか、それを言ったら私なんて出席日数足りさえすれば好きに休むし」
「え、そうなの!?」
 道理で休みが多いなと思っていた。
 だけど、出席日数なんかを気にして休んでいるなんて思わなかった。
 彼女の予想外の言葉に私は思わず大きな声を上げてしまい、恥ずかしくなり俯く。
「小鈴ってさークラスにいると何考えてるかわからないけど、やっぱり何考えてるのか分からないね」
 彼女の言葉に私の口からは乾いた笑いが漏れる。うまく笑える気はしなかった。
「やっぱり変なのかなぁ」
 少しだけおどけて見せて笑ってみるけど、難しい。きっとこれはぎこちない笑いになっている。
「変って言うかー考えすぎ? 空気読みすぎ。空気読みすぎるから空気」
 空気……。
 彼女の悪気の無いカラッとした本音に私は、何でかすんなり納得してしまった。
 そっか、あのクラスの中で私は空気なんだ。

 誰にも迷惑をかけなかった代わりに。
 誰にも見つからないようにひっそりと平穏に暮らしていた代わりに。
 後ろ指を差されなかった代わりに。
 はずれ者にならなかった代わりに。

 私は、多分、何者にもなれていなかった。ただの空気だった。
 いてもいなくてもいい存在だった。

 そう、気付かされてしまった。

「小鈴さー。もっと笑ったり怒ったりすればいいんじゃないの。よくわかんないけどさ。自分のしたいこともやりたいことも分かってないから、空気ばっかり読んじゃうんでしょー」
 彼女の言葉に思わず、涙が出てしまいそうだった。
 別に彼女は私を泣かすためにこんなことを言っているわけではない。
 私を傷つけようとしているわけじゃなくて。そうじゃなくて、その口調はとっても優しかった。
 そうか。私は、毎日、何かが分からなくて、何かに迷っていて、その何かの正体も見えなくて、どうにも出来なくなって、苦しくて、通学路からも、学校からも、日常からも逃げてしまいたくなったんだ。
 私は、自分が分からなくて、自信がなくて、恥ずかしくて、苦しかったんだ。
 ぽつり
 とオムライスに涙がこぼれて、慌てて目元を押さえる。
 こんなところで泣くなんて。しかも、クラスメイトがいるところで泣くなんて。
 嗚咽も漏れてしまいそうで。
 息を止める。
「小鈴?」
 さっきまで、こちらを全然見ていなかったはずの宮野さんが私の顔を覗き込んでいた。
「み、見ないで」
 きっと汚い顔をしている。
 そもそも、泣き顔だって見られたくない。
 私は手のひらで顔を覆って、彼女から顔を背ける。
 こんな恥ずかしいところ、他人に見せるなんてありえない。
「小鈴。ハンカチ」
 使う?
 と彼女は私に差し出しているようだった。
 視界は涙でぼやけて良く分からない。
「どうした。どうした。なんか私、悪いこと言った?」
 どうやら私が泣き出したことに彼女も困惑しているようだったから、このままではダメだと私は涙を拭う。
「ち、ちがうの。なんか、出てきちゃって」
 一生懸命止めようとするけど、涙はうまく止まってくれなくて。
 それが余計に悔しくて、涙は溢れてくる。
「なんかよく分かんないけど、泣いたら? いろいろ頑張ってんだね」
 頑張ってる
 そんな風に思ったことはなかった。
 でも、きっと、頑張ってないように思っていたけど、私は私の知らないところで頑張っていたのかもしれない。
 こんなのは頑張りに入らない。もっと、上がいる。私は出来ないことばかり。
 そんな風に自分の頑張りを否定していたのかもしれない。
 何でかよく知らないクラスメイトの言葉がひどく心に刺さった。
 宮野さん、ずっとこっちを見ていて、オムライス食べる手が止まっちゃってる。
 それがとても申し訳なく思った。
 私は必死に涙を拭う。
 私なんかのために、彼女の手と時間を止めてしまうのは申し訳ないし、いやだった。
「焦んなくていいよ。別に、うちら学校サボってんじゃん? そんな急いで泣き止まなくてもさ。まぁ、オムライスは冷めるかも知んないけどさ」
 特に慰めるわけでもなかったけれど、その彼女の言葉に少しだけほっとして、泣き止むまで、泣いていた。

 それから、どのくらい経ったのだろう。
 短かったような気もするし長かったような気もするその時間が過ぎて。
「急に泣いてごめんね。もう、大丈夫」
 私はそういって、彼女に謝った。
「いや、別に、謝らなくていいよ。勝手に待ってたの私だし」
 そう言って、彼女は机の上においていたスマホを手に持とうとして、私の方を向いた。
「小鈴泣いたの初めて見た。なんていうか……。私、あんたって泣いたり怒ったりしないのかなって思ってた。いつも、一人でいるし、表情分からないし。だから、あんたでも泣くんだって思ってびっくりしたけど、泣いたっていいと思うよ。泣いてる小鈴も全然ありだし」
 彼女はにっと笑った。
 私もつられて笑う。笑ったり泣いたりを自然にしたのはなんだかとても久しぶりなように思った。
 そして、二人して置いたままにしていたオムライスをスプーンで掬い、口に運ぶ。
「「冷た……」」
 二人で同じことを口にして笑う。
「でも、おいしい」
 再びオムライスを口に運ぶ。
 冷めてしまったけれど、オムライスはとてもおいしかった。
 それから、私達は、学校が終わる時間まで、オムライスを食べた後もしばらく飲み物やスイーツを頼んで各々の時間を過ごした。
 普段から同じ教室にいながら、互いのことをあまり知らない私達は、特にこれといった話はしなかった。
 無音で流れる時間。
 けれど、その時間はなんだか特別に思えた。
 私はジュースを飲みながら、考えていた。
 これからの自分のことを。
 逃げ出した今日のおかげで自分が逃げたくなった理由が分かった私はこれからどうすべきかを。

 そのまま、何事もなかったように彼女と分かれて、私は家路に付いた。

 たったこれだけの時間で友達になれたわけではないだろう。
 でも、明日、また彼女と話してみたいと思った。
 今までどうしたいか分からなかった私のやりたいことがやっと見つかった。
 だから……

 いつもと同じ通学路を歩く。
 昨日学校をサボったにも関わらず、今日はなんだがとても楽しい気分だった。
 やりたいことが見つかるとこんなに心が軽くなるのかと驚いた。
 ただ、彼女に一言言いたかった。
 たった一言。
 ありふれていて、しょうもなく、特別ですらない、そんな一言を。
 校門の前で、誰かと話す彼女がいた。
 スマホを片手に「愛、昨日休むなら言ってよー」とぼやく誰かにごめんごめんと返す彼女。
 本来なら、ここに私の居場所はない。声をかけることすら許されないのかもしれない。
 だけど。だからこそ、私はその一言を口にした。

「おはよう」

 勇気を出して、言ってみた。
 それで今日が変わるとも、明日が変わるとも分からない。
 良くなるとも、悪くなるとも分からない。
 だけど。
 だけど、それでも、この一言に意味があるように私には思えた。

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